東海七福神は、昭和7年(1932)品川をはじめとする周辺町村を編入した大東京市の成立を記念し、品川の繁栄を願って発足した。品川宿から鈴ヶ森に至る旧東海道沿いの7つの寺社を巡る七福神霊場である。
■品川神社:大黒天
■養願寺:布袋尊
■一心寺:寿老人
■荏原神社:恵比須
■品川寺:毘沙門天
■天祖諏訪神社:福禄寿
■磐井神社:弁財天
以上の4社3ヶ寺で構成されている。旧品川宿を通る東海道は道幅も江戸時代のままで、石畳による舗装が施されるなど宿場町の面影を残す町並みが続く。七福神の札所以外にも由緒ある寺院が多く、散策ルートとしてもお勧めである。
東海七福神について
品川は、すでに平安時代末期の文献にその名が見え、中世には鎌倉街道の宿場、また太平洋開運の主要な港津として栄えた古くからの交通の要衝である。江戸時代には東海道の第一宿とされ、天保年間には宿内総家数は約1,600軒、人数は約7,000人を数えた。遊興の町としても吉原に並び称されるほどの繁栄を誇ったという。そのため古い由緒を持つ神社仏閣も多い。
東海七福神は、このような歴史的背景を持つ品川宿から隣接する大井町、不入斗(現・大森)の鈴ヶ森に至る旧東海道沿いの七社寺を巡る。昭和7年(1932)当地を含む近郊地域を東京市に編入し、いわゆる大東京市が発足したことを記念して発足した。
企画の中心になったのは郷土玩具研究家の有坂与太郎で、参拝者に授与される宝船と尊像も有坂の考案によるものである。
有坂の『郷土玩具大成 第1巻』(昭和10年、建設社)の「七福神」の項には東海七福神開創の動機や経緯について述べられている。それによれば、海岸の埋め立てや京浜国道の開設、京浜電鉄の高輪乗り入れなどで活気を失っていた品川に往時の賑わいを取り戻すことが目的だったという。
昭和6年(1931)の夏に企画し、半年の準備期間を経て12月中旬に発表。京浜電鉄の援助もあって、昭和7年元旦から三日間、各寺社から尊像が授与された。これが予想以上の好評を得たため、翌8年から尊像の授与期間を元旦から7日間に延長、さらに各寺社から宝船の土鈴を授与するようになった。
その後、昭和18年(1943)まで年々盛んになっていったが、戦局の悪化や戦後の混乱で中断。昭和25年(1950)に復活した。他の七福神霊場の多くが昭和40年代から平成初頭にかけて復活あるいは新規に開創されていることを考えると、かなり早い復活と言えよう。
発足当初の構成寺社は以下の通りで、現在とは少し違っていた。
■品川神社:大国主神
■法禅寺:布袋尊
■荏原神社:恵比寿神
■品川寺:毘沙門天
■海晏寺:寿老人
■浜川神社:福禄寿
■磐井神社:弁財天
寿老人が海晏寺から一心寺に替わったのは昭和61年とのことである。福禄寿は天祖諏訪神社を本務社としたのに伴って遷されたそうで、昭和から平成になった頃と思われる(昭和40年、天祖諏訪神社の社殿を改築した頃ともいう)。布袋尊が法禅寺から養願寺になったのは平成になってからのようだ。その名残で、現在でも法禅寺境内には布袋尊の石像が建っている。
昔の御朱印
筆者の手許には、戦前の東海七福神の御朱印とスタンプがある。御朱印は昭和8年(1933)正月のもので、通常の御朱印に七福神の名を書いている。スタンプは昭和10年(1935)のものである。
特に御朱印のほうは珍しいもので、天祖諏訪神社に参拝した際に確認したところ、七福神のスタンプは見たことがあるが、通常の御朱印に七福神の名を書いたものは見たことがないとのことであった。
昭和8年というと、東海七福神発足の翌年である。この時点では専用のスタンプが準備されていなかったのか、それとも拝受者が特に希望して御朱印に墨書してもらったものかは確認できない。
昭和8年の御朱印
品川神社 | 法禅寺 | 荏原神社 |
品川寺 | 海晏寺 | 濱川神社 |
磐井神社 |
昭和10年のスタンプ
品川神社 | 法禅寺 | 荏原神社 |
品川寺 | 海晏寺 | 濱川神社 |
磐井神社 |
巡拝情報
七福神詣での期間は元旦から1月15日までで、宝船と七福神の像が授与される。対応時間は午前9時から午後5時まで。御朱印の対応も同じようである。
巡拝コースは決まっていないが、7社寺が旧東海道沿いに並んでいるため、北の品川神社から南の磐井神社に向かうか、逆に磐井神社から品川神社に向かうのが一般的である。ただ、昭和15年の品川神社の御朱印に「東海七福 第一番」という印が押されている例があるので、かつては北から南に向かうという順番があったのかも知れない。
品川神社から磐井神社までは約4.5kmで、巡拝に要する時間は2時間から2時間半程度だが、参拝や御朱印の待ち時間によって大きく違ってくるため注意が必要である。また順路に沿って京浜急行が走っており、各寺社はすぐ近くに最寄り駅があるので、距離の長い札所間は電車を使うのもよいだろう。
品川神社(大黒天)
■品川神社
御祭神:天比理之咩命・素盞雄命・宇賀之売命
札所本尊:大黒天
創建年代:文治3年(1187)
社格等:准勅祭社・旧郷社
鎮座地:東京都品川区北品川3-7-15 [Mapion|googlemap]
御由緒
品川神社は北品川宿の鎮守で、江戸時代以前は稲荷大明神と称し、南の天王社と呼ばれた南品川の貴布禰大明神(荏原神社)に対し、北の天王社と呼ばれた。
文治3年(1187)源頼朝が海上安全と祈願成就のために安房国洲崎神社の天比理乃咩命を勧請したことに始まる。元応元年(1319)二階堂道蘊が宇賀之売命を、文明10年(1478)太田道潅が牛頭天王(素盞嗚尊)を勧請したと伝えられる。徳川家康をはじめ歴代徳川将軍の崇敬が篤く、また寛永14年(1637)に東海寺が開創されると、その鬼門鎮護の社とされた。明治元年(1868)には准勅祭社に列格した。
昭和7年(1932)には東京市の拡大を記念して報知新聞が主催した新東京八名勝の第3位に選ばれた。富士塚や双龍鳥居など見どころも多い。
巡拝期間中、大黒天の像は社殿内に祀られる。有坂与太郎によれば、元禄の頃から伝わるという九枚扉の金の厨子に入った像とのこと。石段下にある一の鳥居の脇にも大黒天の石像が安置されている。また境内には七福神の乗った宝船を彫った「東海七福神発祥の碑」がある。
御朱印
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(1)平成23年拝受の御朱印。中央の印は、打ち出の小槌に大黒天の御姿と三つ葉葵の神紋、「北品川天王山 品川神社」「東海七福神 大黒天」。戦前のスタンプとほとんど同じだが、戦前のスタンプは「大黒天」ではなく「大国主神」。右上は小槌に「品川神社」、左下も「品川神社」。
(2)平成30年拝受の御朱印。書き置きでの対応であった。朱印は平成23年のものとほぼ同じ。
平成23年・30年参拝時の様子
平成23年1月5日、初詣や七福神巡りの人のほか、仕事始めの参拝やご祈祷の人も多く、社殿前には長い行列ができていた。
平成30年1月13日、週末だったが初詣の参拝者も一段落しており、ゆっくりとお参りすることができた。
アクセス
□養願寺(布袋尊)より徒歩約3分
□京急本線「新馬場駅」より徒歩約2分
□JR山手線・京浜東北線「品川駅」より徒歩約15分
養願寺(布袋尊)
■明鏡山 善光院 養願寺
御本尊:虚空蔵菩薩
札所本尊:布袋尊
創建年代:正安元年(1299)
開山:不詳/中興開山:什慶
宗派:天台宗
所在地:東京都品川区北品川2-3-12 [Mapion|googlemap]
略縁起
明鏡山善光院と号し、正安元年(1299)の開創で、寛文年間(1661~73)中興開山の什慶によって再興されたと伝えられる。
本尊は弘法大師の作とされる虚空蔵菩薩。4月と11月の第2土・日曜日に行われる大祭で御開帳があり、虚空蔵尊のお縁日として露店や大道芸人などが出て賑わう。また鎌倉時代の作という善光寺式阿弥陀三尊や万治元年(1685)製作の木造不動三尊像は品川区の文化財に指定されている。
商店街から境内に続く「虚空蔵横丁の煉瓦塀」は大変趣があり、映画のロケ地にも使われたそうだ。
七福神の巡拝期間中、札所本尊の布袋尊像は本堂内に祀られる。
御朱印
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(1)平成23年拝受の御朱印。朱印は団扇に布袋尊の御姿と「東海七福神」「布袋」「北品川 養願寺」「参拝記念」で、「法禅寺」が「養願寺」になっているほかは戦前のスタンプとほぼ同じ。右上は団扇に「養願寺」、左下は「養願寺印」。
(2)平成30年拝受の御朱印。中央と右上の朱印は平成23年のものと同じ。左下の印は「明鏡山 善光院 養願寺」で、右下に「東海七福神」。
平成23年・30年参拝時の様子
平成23年。ポツポツと参拝者が訪れていた。この頃は、まだ御朱印帳に朱印をいただく人はそれほど多くないようだった。
平成30年。参拝者が次々に訪れていた。
アクセス
□品川神社(大黒天)より徒歩約3分
□一心寺(寿老人)より徒歩約1分
□京急本線「新馬場駅」より徒歩約2分
一心寺(寿老人)
■豊盛山 延命院 一心寺
通称:品川成田山不動尊
御本尊:不動明王
札所本尊:寿老人
創建年代:安政2年(1854)
開山:不詳(町民有志?)
宗派:真言宗智山派
所在地:東京都品川区北品川2-4-18 [Mapion|googlemap]
略縁起
一心寺は、東海道をはさんで養願寺と向かい合うように建っている。
御本尊は成田山の不動明王の御分身で、安政2年(1854)町民代表一同によって建立されたと伝えられる。前年には大老井伊直弼の主導により日米和親条約が結ばれており、時勢が大きく変動する中で、日本の鎮護と宿場町民の繁栄を願ったのであろうとされる。
同年に起こった安政の大火で焼失するが、明治8年(1875)に再建された。京都本願寺の宮大工・伊藤氏により、本願寺と同じ方式と材料で造営されたという。昭和になり、中僧正弘道大和尚により「豊盛山延命院一心寺」の寺格を拝受した。
延命と商売繁盛で信仰を集め、毎月28日の縁日での「ほうろく灸」でも知られる。昭和新撰江戸三十三観音の三十番でもある。
巡拝期間中、札所本尊の寿老人は本堂内に祀られる。
御朱印
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(1)平成23年拝受の御朱印。中央の朱印は団扇に寿老人の御姿と「寿老人」「北品川一心寺」「参拝記念」、その上に「寿」の印。右に「東海七福神」「一心寺」、左下に「豊盛山延命院一心寺」。
(2)平成30年拝受の御朱印。中央の朱印は平成23年のものと同じ。左下に「品川成田山 一心寺」。
平成23年・30年参拝時の様子
平成23年の参拝時、正月の装いをした門前の様子。ちょうどお昼時だったためか、ちょうど参拝者が途切れたところだった。
平成30年、次々に参拝者が訪れていた。御朱印帳に朱印をいただく方も多かった。
アクセス
□養願寺(布袋尊)より徒歩約1分
□荏原神社(恵比須)より徒歩約4分
□京急本線「新馬場駅」より徒歩約3分
荏原神社(恵比須)
■荏原神社
御祭神:高龗神・天照皇大神・須佐男之神・豊受姫之神・手力雄之神・大鳥大神・恵比須神
札所本尊:恵比須
創建年代:和銅2年(709)
社格等:旧郷社
鎮座地:東京都品川区北品川2-30-28 [Mapion|googlemap]
公式サイト:http://ebarajinja.org/
御由緒
荏原神社は南品川の鎮守で、江戸時代以前は貴布禰大明神と称し、北の天王社と呼ばれた稲荷大明神(品川神社)に対し、南の天王社と呼ばれた。
和銅2年(709)大和の丹生川上神社より御分霊を勧請したことに始まる。長元2年(1029)神明宮、宝治元年(1274)京都の祇園社(八坂神社)から牛頭天王を勧請した。源頼義・義家親子による戦勝祈願をはじめ、徳川歴代将軍など武門の崇敬が篤かった。明治元年(1868)・同2年(1869)の明治天皇東京行幸に際しては内侍所とされた。
現在の社殿は弘化3年(1844)の建造、「荏原神社」の扁額は内大臣三条実美の染筆である。5月下旬から6月上旬に行われる天王祭は天王洲沖で神輿が海に入る「御神面海中渡御」が有名で、「かっぱ祭り」の別名がある。
御朱印
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(1)平成23年拝受の御朱印。中央の朱印は鯛に恵比須神の御姿に「東海七福神 恵比須」「南品川 荏原神社」。戦前のスタンプとほぼ同じだが、戦前の「恵比寿神」が「恵比須」にかわっている。右上は鯛に「荏原社」、左下は「荏原神社」。
(2)平成30年拝受の御朱印。平成23年の御朱印とほぼ同じで、右に「東海七福神」、左に「荏原神社」。
平成23年・30年参拝時の様子
平成23年、お昼時だったが、ポツポツと参拝者が訪れていた。
平成30年、次々に七福神巡りの参拝者が訪れていた。
アクセス
□一心寺(寿老人)より徒歩約4分
□品川寺(毘沙門天)より徒歩約10分
□京急本線「新馬場駅」より徒歩約6分
品川寺(毘沙門天)
■海照山 普門院 品川寺
御本尊:水月観世音菩薩・聖観世音菩薩
札所本尊:毘沙門天
創建年代:大同年間(806~10)/中興:承応元年(1652)
開山:弘法大師/中興開山:弘尊上人
宗派:真言宗醍醐派 別格本山
所在地:東京都品川区南品川3-5-17 [Mapion|googlemap]
公式サイト:http://honsenji.net/
略縁起
寺伝によれば開創は大同年間(806~10)で、弘法大師が東国巡錫中、当地の領主・品河氏に水月観音を授けたとされる。応永2年(1395)品河氏が滅びると、この尊像は観音堂に祀られ、町の人々の信仰を集めるようになった。
後に太田道潅が自身の念持仏である聖観音像を併せ祀り、長禄元年(1457)江戸城を築いた際に伽藍を造営、金華山普門院大円寺と号した。しかし、武田信玄の兵火にかかり、水月観音も甲州に持ち去られたが、後に返還されて騒動に祀られたという。
寛文元年(1652)弘尊上人が徳川家綱より4800坪の寺地を拝領、太田一族の外護により伽藍を造営し、寺号を品川寺と改めた(後に山号も海照山と改称)。
門前には江戸六地蔵第一番の地蔵菩薩坐像が奉安されている。大梵鐘は弘尊上人の発願により鋳造されたもので、『江戸名所図会』にも「世にもまれなる梵鐘」として紹介されている。その他にも光明石や庚申塔などかつての繁栄を偲ばせる遺物が多い。
因みに札所本尊は毘沙門天だが、一山の鎮守は弁財天で弁天堂に祀られている。また、境内には金生七福神として、鐘楼周辺に七福神の石像が安置されている。
巡拝期間中、札所本尊の毘沙門天は本堂内に祀られている。
御朱印
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(1)平成23年拝受の御朱印。中央の朱印は塔に毘沙門天の御姿と「東海七福神」「南品川 品川寺」「参拝記念」。戦前のスタンプとほぼ同じデザインである。右上の印は塔に「品川寺」、左下は「品川寺印」。
(2)平成30年拝受の御朱印。朱印は平成23年のものと同じで、右に「東海七福神」。
平成23年・30年参拝時の様子
平成23年、地元のウォーキンググループらしい七福神巡りの人たちで賑わっていた。
お昼前の時間帯、参拝の人たちも食事の場所を相談していた。
アクセス
□荏原神社(恵比須)より徒歩約10分
□天祖諏訪神社(福禄寿)より徒歩約18分
□京急本線「青物横丁駅」より徒歩約5分
天祖諏訪神社(福禄寿)
■天祖・諏訪神社
御祭神:天照大御神・豊受大神・建御名方刀美神・小碓命
札所本尊:福禄寿
創建年代:建久年間(1190~99)以前(天祖神社)・寛永8年(1631)以前(諏訪神社)
社格等:旧村社(天祖神社)・旧無格社(諏訪神社)
公式サイト:http://tensosuwa-jinja.jp/
御由緒
天祖諏訪神社は、立会川をはさんで鎮座していた天祖神社と諏訪神社を合祀したものである。
天祖神社は、古くは神明宮と称し、旧大井村のうち浜川町と元芝の鎮守であった。古記録から建久年間(1190~99)以前の創建と考えられており、元は来福寺の境内に鎮座していたと伝わる。諏訪神社は土佐藩下屋敷の海岸寄りに鎮座し、寛永8年(1631)以前の創建と考えられている。
昭和40年(1965)天祖神社の改築に際して両社を合祀、天祖・諏訪神社と称するようになった。
巡拝期間中、札所本尊の福禄寿は社務所の建物の一角に設けられた拝所に安置される。
御朱印
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(1)平成23年拝受の御朱印。中央の朱印は巻物に鶴と福禄寿の御姿、「東海七福神 福禄寿」「濱川 天祖諏訪神社」「参拝記念」、左下の印は「天祖諏訪神社」で、卵を逆さにしたような形は鶴を省略したものかも知れない。
(2)平成30年拝受の御朱印。朱印は平成23年のものと同じ。
平成23年・30年参拝時の様子
平成23年、初詣や七福神巡りの参拝者が訪れていた。
平成30年、お昼の時間帯だったが、七福神巡りの参拝者が次々訪れていた。
アクセス
□品川寺(毘沙門天)より徒歩約18分
□磐井神社(弁財天)より徒歩約18分
□京急本線「立会川駅」より徒歩約1分
磐井神社(弁財天)
■磐井神社
御祭神:応神天皇・大己貴命・仲哀天皇・神功皇后・姫大神
札所本尊:弁財天
創建年代:敏達天皇2年(573)
社格等:式内社・旧郷社
鎮座地:東京都大田区大森北2-20-8 [Mapion|googlemap]
公式サイト:https://iwaijinja.tokyo/
御由緒
磐井神社は式内の古社で、『三代実録』の貞観元年(859)10月7日条には「武蔵国従五位下磐井神社を官社に列す」とある。江戸時代以前は鈴森八幡宮と称していた。
社伝によれば敏達天皇2年(573)の創建。貞観元年(859)山城国男山に石清水八幡宮を創建した際、六十六州ごとに総社八幡宮を定め、武蔵国では当社が選ばれたと伝えられる。
元亀・天正(1570~92)の頃までは社地も広大だったが、次第に海岸線が浸食され、わずかに社のみが残るだけになった。寛文3年(1663)社殿が再興され、後には社地を拡大して門前町も形成された。徳川家康をはじめ歴代徳川将軍が参拝したという。
社宝の鈴石は神功皇后ゆかりの石とされ、打つと鈴のような音がしたことから鈴ヶ森の地名の由来となったといわれる。烏石は烏の模様のある珍しい石で、江戸時代の書家・松下烏石が寄進したものである。神社前の歩道上には社名の由来となった霊泉・磐井の井戸がある。
札所本尊の弁財天は、境内の笠島弁天社に祀られている。笠島はかつての当社周辺の地名で、万葉集の「草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌に詠まれた笠島は笠島弁天社を指すともいわれる。
御朱印
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(1)平成23年拝受の御朱印。中央の朱印は琵琶に弁財天の御姿、「東海七福神 弁財天」「大森海岸 磐井神社」。デザインは戦前のスタンプとほぼ同じだが、戦前のスタンプでは「東海七福神 笠島弁財天」「大森入新井 磐井社」となっている。左下の印は「磐井神社」。
(2)平成30年拝受の御朱印。朱印は平成23年のものと同じ。
平成23年・30年参拝時の様子
平成23年。午後になり、そろそろ参拝者も途切れがちな時間帯であった。
平成30年。お昼時だが、次々に参拝者が訪れ、御朱印をいただいていた。
アクセス
□天祖諏訪神社(福禄寿)より徒歩約18分
□京急本線「大森海岸駅」より徒歩約3分
□JR京浜東北線「大森駅」より徒歩約10分
更新情報
2018.11.24.公開
2024.07.16.改訂