梅田神明宮

梅田神明宮

正式名称 梅田神明宮〔うめだしんめいぐう〕
御祭神 天照皇大神 〈相殿〉井上正鐵霊神
社格等
鎮座地 東京都足立区梅田6-19-4 [Mapion|googlemap]
公式サイト http://www.umeda-shinmeigu.net/

【由緒概要】
梅田神明宮は、宝暦12年(1762)江戸の大火で芝神明宮が焼失した直後、地主神が祀られていた当地に天照皇大神を奉斎したことに始まるという。天保11年(1840)禊教の教祖・井上正鐵が神主となり、吐菩加美神道を唱えて大名から庶民まで多くの門弟・信者が集まったという禊教発祥の霊場である。

梅田神明宮の御朱印

  • 梅田神明宮の御朱印

    (1)

  • 梅田神明宮の御朱印

    (2)

(1)平成19年拝受の御朱印。中央下の朱印は白抜きで「梅田神明宮宮司印」。

(2)平成28年拝受の御朱印。中央の朱印は「梅田神明宮印」、左下は白抜きで「梅田神明宮宮司印」。

梅田神明宮について

名称 梅田神明宮
旧称 神明社
御祭神 天照皇大神〔あまてらすすめおおかみ〕
〈相殿〉
井上正鐵霊神〔いのうえまさかねれいじん〕
鎮座地 東京都足立区梅田六丁目19番4号
創建年代 宝暦12年(1762)
社格等
例祭 4月15日
神事・行事 1月1日/歳旦祭
6月30日/大祓
12月31日/大祓
※『平成「祭」データ』による

御由緒

梅田神明宮は禊教の教祖・井上正鐵ゆかりの神社として知られる。

宝暦12年(1762)江戸の大火で芝大神宮が焼失した直後、地主神が祀られていた現社地に天照皇大神を奉斎したと伝えられる。本殿の棟札には享和3年(1803)とある。また、拝殿・幣殿は明治7年(1874)に改築されたものである。

文政13年(1830)に完成した『新編武蔵風土記稿』の足立郡梅田村の項には「神明社 神主ヲ朝日出羽ト云。吉田家ノ配下ナリ」とあり、当時は吉田家支配下の神社であった。

井上正鐵は寛政2年(1790)江戸に生まれた。医術・観相術を学び、浅草橋のあたりで医者として開業する。

天保4年(1833)に見た神夢をきっかけに神祇伯白川家に入門して神職の免許を得、同11年(1840)梅田神明宮の神主となった。ここで正鐵は吐菩加美神道(後の禊教)を唱導し、宮津藩主・松平宗秀をはじめとする大名たちから無宿人や博徒まで、幅広い門弟・信者が集まった。

そのため幕府から「新義異説」の嫌疑を受け、天保14年(1843)三宅島へ遠島となった。門人たちは赦免運動を続けたが許されず、嘉永2年(1849)同島で没する。

正鐵の門人たちは幕府の圧迫を受けながらも活動を続けた。明治になると、坂田鐵安を中心にしたグループと、残りの弟子たちのグループに分裂して宗教活動を展開した。坂田鐵安のグループは神道本局(現在の神道大教)から禊教として一派独立した(現在は禊教と神道禊教に分裂)。残りの弟子たちは、神道大成教傘下の禊教として活動した。

摂社の井上神社は、井上正鐵を慶応4年(1868)神祇伯・白川資訓王が遷霊の儀を執り行った後、禊祓霊社として祀られたものである。明治12年(1879)井上正鐵霊神を井上神社の社号で神社に列することが認められたため、禊祓霊社を井上神社と改称した。社前に掲げられている神号額は神道大成教の初代管長・平山省斎の筆である。

後に井上正鐵霊神が本殿に合祀されることになったため、井上神社には正鐵霊神の荒魂と安藤真鐵霊神、井出千代子大刀自命、安西男也大刀自命、三浦隼人霊神、三浦智善刀自命を祀った。

梅田神明宮の隣には、戦後、神道大成教から独立した神道禊大教会がある。井上正鐵の高弟・野沢鐵教の流れを汲む教団で、長年にわたって梅田神明宮を護持してきた。昭和55年(1980)西日暮里から禊教発祥の地ともいうべき現在地に移転し、教祖の教えを伝えている。

写真帖

  • 鳥居

    鳥居

  • 手水舎

    手水舎

  • 拝殿

    拝殿

  • 井上神社

    摂社 井上神社

  • 井上神社神号額

    井上神社神号額(平山省斎書)

  • 教祖旧宅

    井上正鐵旧宅

メモ

広い境内ではないが、緑があふれている。神道祓大教会の人たちによって護持管理されているようだ。境内で掃除をしていた方に御朱印のことを聞くと、教会の建物に案内された。因みに、三島由紀夫夫人は同教会の縁者で、三島由紀夫の神葬祭は、当時西日暮里にあった同教会で執り行われたとのことである。

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