【略縁起】
寺伝によれば聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創し、金光明寺と名付けられた。弘法大師が当地を巡錫した際、水不足に悩む里人のために井戸を掘ったところ霊水が湧出し、人々はこれを黄金の井戸と称した。金光明寺を再興した大師は、黄金の井戸に因んで寺号を金泉寺と改めたという。
名称 | 亀光山 釈迦院 金泉寺 |
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御本尊 | 釈迦如来 |
本尊真言 | のうまく さんまんだ ぼだなん ばく |
御詠歌 | 極楽の宝の池を思えただ 黄金の泉すみたたえたる |
所在地 | 徳島県板野郡板野町大寺66 [Mapion|googlemap] |
金泉寺の納経(御朱印)
(1)平成元年に拝受した納経。揮毫は釈迦如来の種字「バク」に「釈迦如来」。中央の宝印は菊に流水で(金泉を表すものか?)、中に釈迦如来の「バク」、左が阿弥陀如来の「キリーク」、右が薬師如来の「バイ」の三つの梵字がある。これと同じものが本堂の幕にも染め抜かれていたので、寺紋だろうと思われる。右上の朱印は「四国第三番」、左下は「金泉寺」。
(2)平成18年に拝受した納経。揮毫は釈迦如来の種字「バク」に「釈尊」。朱印は平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(3)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納経」「本尊釈迦牟尼如来」「亀光山」「金泉寺執事」。中央の宝印は中央の行が「○○薄地」、右が「東方教主」、左が「西方○主」のようだが判読できない。右上の印は「四国第三番」、左下は「金泉寺」か。
(4)天保12年(1841)の納経。揮毫は「奉納経」「本尊釈迦牟尼佛」「亀光山」「金泉寺」。朱印は天保11年のものと同じ。
明治時代の納経
(5)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉納」「本尊釈迦如来」「亀光山 金泉寺」。中央の宝印は菊に流水(梵字はない)。右上の朱印は「四国第三番」、左下は現在のものと同じ「金泉寺」。
金泉寺について
山号 | 亀光山(きこうざん) |
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寺号 | 金泉寺(こんせんじ) |
院号 | 釈迦院(しゃかいん) |
御本尊 | 釈迦如来 |
所在地 | 徳島県板野郡板野町大寺字亀山下66番地 |
創建年代 | 天平年間(729~728) |
開山 | 行基菩薩 |
宗派等 | 高野山真言宗 |
備考 | 阿波北嶺薬師霊場(9番) |
覚え書き
聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開創したと伝えられる。当時の寺号は金光明寺といった。弘法大師が巡錫されたとき、水不足に悩む里人のために井戸を掘り(黄金の井戸)、寺号を金泉寺と改められたという。
かつては壮大な伽藍を誇ったといい、旧村名である大寺は当寺に因む。また、江戸時代の初めまで板野郡は板東郡と板西郡に分かれていたが、寂本の『四国徧礼霊場記』には金泉寺の堂の扉の板を以て東西に分けることから板東・板西と呼ぶとある。元暦2年(1185)阿波に上陸した源義経が屋島へ向かう途中、当寺に立ち寄って戦勝を祈願した。弁慶石は、弁慶が力試しに持ち上げたものと伝えられる。
亀山院が深く帰依し、勅願道場として堂塔を再興し、京都の蓮華王院に倣って三十三間堂などを造営するとともに、亀光山の山号を賜った。南朝の長慶天皇は当寺で崩御したと伝えられ、大正5年には裏山から御陵石が発見された。
しかし、壮大な規模を誇った金泉寺も天正10年(1582)長宗我部元親の兵火により大半が焼失。現在の伽藍はその後の再建によるものである。
黄金地蔵が祀られている黄金井の井戸は、覗いて顔がはっきり映れば長生きし、ぼやけていれば短命だと伝えられる。
金泉寺の奥の院は愛染院である。