第33番 高福山 雪蹊寺

33番雪蹊寺

名称 高福山 雪蹊寺
御本尊 薬師如来
所在地 高知県高知市長浜857-3 [Mapion|googlemap]

【本尊真言】
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

【御詠歌】
旅の道うえしも今は高福寺 のちのたのしみ有明の月

【略縁起】
寺伝によれば弘法大師の開創で、元は高福寺と称したという。長宗我部元親が月峰和尚を招いて中興開山とし、臨済宗に改宗した。慶長4年(1599)元親が没すると菩提寺に定められ、元親の法号に因んで雪蹊寺と改めた。明治の廃仏毀釈で廃寺となるが、明治12年(1879)名僧として知られる山本太玄師によって再興された。

目次

雪蹊寺の納経(御朱印)

  • 雪蹊寺の納経

    (1)

  • 33番雪蹊寺の納経

    (2)

(1)平成元年拝受の納経。揮毫は「薬師如来」。中央の宝印は「仏法僧宝」の三宝印。右上の朱印は「四国第三十三番」、左下は「雪蹊寺」。

(2)平成19年に拝受した納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。

江戸時代の納経

  • 天保11年の納経

    (1)

  • 天保12年の納経

    (2)

(1)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納」「本尊薬師如来」「土州 少林山」「雪蹊寺」。中央の宝印は十六八重菊と五三桐の御紋。右上の朱印は「第三十三番」、左下は「雪蹊」。

(2)天保12年(1841)の納経。版木押しで、「奉納四国霊場」「本尊薬師如来」「土州 少林山」「雪蹊寺」。朱印は天保11年のものと同じ。

明治時代の納経

  • 明治38年の納経

    (1)

(1)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉納」「医王殿(薬師如来を祀るお堂のこと)」「土州 雪蹊寺」。中央の宝印は「仏法僧宝」の三宝印。右上の朱印は「四国第三十三番」。左下は「雪蹊寺」で、これは現在使われているものと同じようである。

雪蹊寺について

山号 高福山(こうふくざん)
寺号 雪蹊寺(せっけいじ)
院号
旧称 保寿山高福寺 慶雲寺 少林山雪蹊寺
御本尊 薬師如来
所在地 高知県高知市長浜857番地3号
創建年代 弘仁6年(815)
開山 弘法大師
宗派等 臨済宗妙心寺派
文化財 〈重文〉文木造薬師如来及び両脇侍像(附:木造十二神将立像) 木造毘沙門天及び脇侍立像

覚え書き

この寺の歴史については参照する資料によって異同が多い。
寺伝によれば弘法大師の開創。元は真言宗で保寿山高福寺と称したという。『土佐国編年紀事略』は嘉禄元年(1225)右近将監定光という人物が高福寺を造営したとする。
天正16年(1588)の長浜地検帳では慶雲寺となっている。鎌倉時代に仏師・運慶と長子の湛慶が来山し、運慶が本尊の薬師三尊を、湛慶が毘沙門天と脇侍の吉祥天・善膩師童子を造立して安置したと伝えられ、この由縁により寺号を慶雲寺と改めたとされる。なお、毘沙門天像には湛慶の墨書銘が残っている。
永禄11年(1568)長宗我部元親が薬師堂を建立(『土佐国古文叢』所載の棟札による)。天正年間(1573~92)月峰和尚を中興開山として臨済宗に改めた。慶長4年(1599)元親が没すると、後を継いだ盛親が長宗我部家の菩提寺に定め、元親の法号「雪蹊如三大居士」に因んで少林山雪蹊寺と改められた。なお、『南路志』は臨済宗への改宗を菩提寺となった慶長4年のこととする。
明治初めの廃仏毀釈によって廃寺となった。跡地に隣接して長宗我部元親を祀る秦神社が創建され、元親の肖像画(重要文化財)や戸次川戦死者の大位牌などが移されている。また33番札所は31番竹林寺の預かりとなったようである。明治12年(1879)山本太玄和尚によって再興され、現在に到る。
「白隠の再来」と称された山本玄峰師は、若い日に目を患ってほとんど失明の状態となり、四国遍路に出た。7回目の巡拝の途中、雪蹊寺の通夜堂で太玄師に救われ、仏門に入った。雪蹊寺の住職となった後、妙心寺派の管長になる。数々の寺を再興し、白隠禅師ゆかりの三島龍沢寺の住職となった。終戦の詔勅の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」は玄峰師の進言によるという。
ところで、澄禅の『四国辺路日記』(承応2年/1653)や真念の『四国辺路道指南』(貞享4年/1687)、寂本の『四国徧礼霊場記』はいずれも当寺を保寿山高福寺とし、今は雪蹊寺と号すとする。一方、江戸時代の納経帳はいずれも「少林山雪蹊寺」である。これは二つの寺号をともに使っていたというより、真言宗の僧や遍路にとって、当寺は弘法大師ゆかりの高福寺であるべきで、元親に因む雪蹊寺という名は認めがたいという意識があったのではないだろうか。雪蹊寺が廃寺となっていた期間、竹林寺が引き継いでいた33番札所の納経には「高福寺」の寺号が用いられているのもその現れのように思われる。また、雪蹊寺が再興された後、山号が少林山から旧寺号に因む高福山になっているが、これも弘法大師ゆかりの霊場ということを尊重したためではないかと考える。
なお、資料の混乱に原因があるのだが、当寺の江戸時代の山号寺号を高福山雪蹊寺としている例があるが、江戸時代の納経帳から見て少林山とするのが正しい。また、真言宗時代を少林山高福寺としている例もあるが、少林山は嵩山少林寺に因む禅宗特有の山号であり、臨済宗に改宗して以降の山号と考えるべきである。

写真帖

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