第54番 近見山 延命寺 | 愛媛県今治市

54番延命寺

養老4年(720)聖武天皇の勅願により行基菩薩が近見山に開創したと伝えられる。弘仁年間(810~24)嵯峨天皇の勅願により弘法大師が再興し、円明寺と名付けたという。焼失と再建を繰り返し、享保12年(1727)山麓の現在地に移転再興された。明治になって郵便制度ができると、同名の53番円明寺と間違えられるようになったため、通称の延命寺を正式名称とした。

名称 近見山 宝鐘院 延命寺
御本尊 不動明王
本尊真言 のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん
御詠歌 くもりなき鏡の縁とながむれば 残さず影をうつすものかな
所在地 愛媛県今治市阿方甲636 [Mapion|googlemap]
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目次

延命寺の納経(御朱印)

54番延命寺の納経
(1)
54番延命寺の納経
(2)

(1)平成元年拝受の納経。揮毫は「不動明王」。中央の宝印は蓮台上の宝珠に不動明王の種字「カーン」。右上の印は「四国五十四番」、左下は「宝鐘院」。

(2)平成18年拝受の納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。

昔の納経

天保11年の納経
(3)
天保12年の納経
(4)
明治38年の納経
(5)

(3)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納経」「本尊不動明王」「近見山」「円明寺」。中央の宝印は勅願所であることを示す十六菊と五三桐の御紋。右上の印は「五十四番」、左下は現在のものとよく似た「宝鐘院」。

(4)天保12年(1841)の納経。揮毫は「奉納」「本尊大聖不動明王」「近見山」「圓明寺」。朱印は天保11年のものと同じ。

(5)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉納」「不動殿」「延命寺」。中央に宝印はなし。右上の印は「四国五十四番」、左下は「宝鐘院」。

略縁起

寺伝によれば、養老4年(720)聖武天皇の勅願により行基菩薩が近見山の頂上に開創した。嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が伽藍を再興し、不動院円明寺と号したという。

鎌倉時代には東大寺の示観国師凝念〔じかんこくし ぎょねん〕が滞在し、『八宗綱要〔はっしゅうこうよう〕』を執筆したことでも知られる。

最盛期には山上に七堂伽藍を備え、谷々には100坊を誇ったというが、長宗我部氏の兵火などにより悉く焼失した。この時、名鐘として知られていた当寺の梵鐘を長宗我部の兵士が略奪し、船に積んで海上へ出た。すると、鐘が急に動き出して海中に落ちて略奪されることを拒んだという。

享保12年(1727)現在地に移転再興された。それに先立ち宝永元年(1704)梵鐘が再鋳された。第二次大戦の金属供出も免れた名鐘で、宝鐘院の院号もこれに由来する。この梵鐘は近見二郎と呼ばれ、現在は除夜の鐘にのみ鳴らされる。

境内には、阿方の庄屋であった越智孫兵衛の墓がある。孫兵衛は池普請の際、農民たちに弁当として麦粥を入れただけの竹筒を持たせ、さりげなく代官に農民の窮状を訴えた。その結果、七公三民だった税率が六公四民に引き下げられ、享保の大飢饉には一人も餓死者を出さなかった。

また、同じく境内にある真念法師による道標は四国で2番目に古いものという。「左へんろ道 願主真念」の文字が見える。

明治になって郵便制度ができると、たびたび53番札所の円明寺と間違えられるようになったため、通称の延命寺を正式名称とした。

奥の院は山門を入ってすぐ左側にある薬師堂で、圓明寺と称する。

写真帖

山門
山門
梵鐘
梵鐘(近見二郎)
大師堂
大師堂
本堂
本堂
真念法師の道標
真念法師の道標

延命寺の概要

山号 近見山(ちかみざん)
寺号 延命寺(えんめいじ)
院号 宝鐘院(ほうしょういん)
旧称 円明寺(えんみょうじ)
御本尊 不動明王
所在地 愛媛県今治市阿方甲636番地
創建年代 養老4年(720)
開山 行基菩薩
宗派等 真言宗豊山派
文化財 〈国宝〉文化財の名前)〈重文〉文化財の名前
備考 七福神など

交通アクセス

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