第35番 医王山 清瀧寺 | 高知県土佐市

35番清瀧寺

養老7年(723)行基菩薩が自ら刻んだ薬師如来を本尊として寺を建立し、景山密院繹木寺と称したという。弘仁年間(810~24)弘法大師が山中の岩の上に壇を築き、五穀豊穣を祈って7日間の修法を行った。満願の日に金剛杖で壇を突くと清水が湧き出し、鏡のような池になったので、鏡池院清瀧寺と改めたと伝えられる。

名称 医王山 鏡池院 清瀧寺
御本尊 薬師如来
本尊真言 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
御詠歌 澄む水を汲むは心の清瀧寺 波の花散る岩の羽衣
所在地 高知県土佐市高岡町丁568-1 [Mapion|googlemap]
あわせて読みたい
四国八十八ヶ所 伝承によると、四国八十八ヶ所は弘仁6年(815)弘法大師が42歳のときに開創されたとされます。これを最初に回ったのは、大師の弟子である真済僧正とも、伊予国浮穴郡荏...
目次

清瀧寺の納経(御朱印)

清瀧寺の納経
(1)
35番清瀧寺の納経
(2)

(1)平成元年拝受の納経。揮毫は薬師如来の種字「バイ」に「薬師如来」。中央の宝印は火炎宝珠に「バイ」。右上の印は「四国第三十五番」、左下は「医王山鏡池院清瀧寺」。

(2)平成19年拝受の納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。

昔の納経

天保11年の納経
(3)
天保12年の納経
(4)
明治38年の納経
(5)

(3)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納」「本尊薬師如来」「清瀧寺」「役者」。中央の宝印は蓮台上の火炎の中に薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「四国三十五番」、左下は「医王山鏡池院」。

(2)天保12年(1841)の納経。揮毫は「奉納」「本尊薬師如来」「清瀧寺」。朱印は天保11年のものと同じ。

(5)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉納経」「本尊薬師如来」「清瀧寺」。中央の宝印は火炎宝珠に薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「四国第三十五番」、左下は「土佐国清瀧寺」。

略縁起

中に戒壇巡りがあり、厄除けに霊験あらたかとされる。種間寺と同じく、安産のために底を抜いた柄杓を納める信仰がある。

養老7年(723)行基菩薩が開創したと伝える。当時は景山密院繹木寺と称した。弘仁年間(810~24)弘法大師が留錫し、本堂から300mほど登った山中の岩に壇を築き、一七日(7日間)の修法を行った。満願の日に岩を金剛杖で突くと、水が湧き出して滝になり、鏡のような池ができた。そこで寺号を清瀧寺、院号を鏡池院に改めたという。

中世には脇坊が12坊あったと伝えられる。江戸時代は土佐藩の帰依が厚かった。明治4年(1871)廃寺になるが、同13年(1880)再興される。

境内の入らずの山にある五輪塔は真如法親王の逆修の塔〔ぎゃくしゅのとう〕と伝えられる。真如法親王は平城天皇の第三王子・高丘親王のこと。嵯峨天皇のとき皇太子に立てられたが、薬子の乱の後に廃され、出家して弘法大師の弟子となった。大師の十大弟子の一人で、今に伝わる弘法大師の肖像の元となる高野山御影堂の大師御影は真如法親王の筆とされる。密教の師を求めて天竺へと向かい、マレー半島で客死したと伝えられる。

伝承によれば、貞観3年(861)親王は大師の夢告によって土佐へ下向し、清瀧寺に1年間留錫した。退去するにあたって逆修の塔を建てたという。

奥の院は、寺号の由来となった閼伽井〔あかい〕の泉である。

写真帖

本堂
本堂
本堂向拝
本堂向拝 捨身誓願の彫刻
大師堂
大師堂

メモ

清滝山の中腹に建つ。清瀧寺へはかろうじて車1台通れるほどの細くて急な登り道が1kmほど続くため、車での遍路では最大の難所と言われる。

寺のシンボルは本堂前の薬師如来像で、高さ15mという。

清瀧寺の概要

山号 医王山(いおうざん)
寺号 清瀧寺(きよたきじ)
院号 鏡池院(きょうちいん)
旧称 景山密院 繹木寺
御本尊 薬師如来
所在地 高知県土佐市高岡町丁568番地1号
創建年代 養老7年(723)
開山 行基菩薩
宗派等 真言宗豊山派
文化財 〈重文〉木造薬師如来立像 〈県有形文化財〉銅造鏡像(懸仏)4面 〈県史跡〉高岳親王塔

交通アクセス

※掲載の情報は最新のものとは限りません。ご自身で確認をお願いします。
※掲載されている古い資料画像(納経帳、絵葉書等)について、特に引用元を明示したもの以外は管理者が所有する資料であり、無断使用はご遠慮ください。使用を希望される場合は管理者までご連絡ください。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次