名称 | 府頭山 無量寿院 栄福寺 |
---|---|
御本尊 | 阿弥陀如来 |
所在地 | 愛媛県今治市玉川町八幡甲200 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.eifukuji.jp/ |
【本尊真言】
おん あみりた ていせいから うん
【御詠歌】
この世には弓矢を守る八幡なり 来世は人を救う弥陀仏
【略縁起】
江戸時代までは石清水八幡神社が札所で、栄福寺が別当として納経を司っていた。寺伝によれば弘仁年間(810~24)弘法大師が海上安全の為に海神供養の護摩を修し、海中より現れた阿弥陀如来を府頭山(八幡山)の頂上に祀ったという。貞観元年(859)行教上人が八幡宮を勧請し、神仏習合の霊場となった。明治の神仏分離により、栄福寺は現在地に移動し、57番札所を引き継いだ。
栄福寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は「阿弥陀如来」。中央の宝印は蓮台上の円に阿弥陀如来の種字「キリーク」。右上の印は「四国五拾七番」、左下は「府頭山印」。
(2)平成18年に拝受した納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。版木押しで扁額に「伊豫一国一社 八幡宮広前 別当栄福寺」。中央上の宝印は八角形に「石清水社」と「キリーク」など4つの梵字。右上の印は「第五拾七番」、左下は「栄福寺印」。
(2)天保12年(1841)の納経。版木と中央上の宝印は天保11年のものと同じ。右上の印は「五十七番」、左下は「府頭山印」。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉納」「本尊阿弥陀如来」「いよ(伊豫)栄福寺」。中央の宝印は蓮台上の火炎宝珠に阿弥陀如来の種字「キリーク」、右上の印は「五十七番」、左下は「府頭山印」。
栄福寺について
山号 | 府頭山(ふとうざん) |
---|---|
寺号 | 栄福寺(えいふくじ) |
院号 | 無量寿院(むりょうじゅいん) |
旧札所 | 石清水八幡神社 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
所在地 | 愛媛県今治市玉川町八幡甲200 |
創建年代 | 弘仁年間(810~24) |
開山 | 弘法大師 |
宗派等 | 高野山真言宗 |
覚え書き
八幡山の山腹に建つ。江戸時代までは石清水八幡宮(現・石清水八幡神社)が札所で、栄福寺が別当として祭祀や納経を司っていた。
元は長福寺と号したが、後に乗泉寺と称するようになり、寛政4年(1792)に栄福寺と改めた。元禄3年(1690)の『四国徧礼霊場記』には長福寺とあるが、享保11年(1736)の納経帳には乗泉寺とある。享保の初め頃、9代将軍家重の幼名が長福丸の名をはばかり、各地の長福寺が寺号を改めている。当寺も同じ頃に改称したのであろう。
寺伝によれば、弘法大師がこの地を巡錫した折、近辺の海で海難事故が多いことを知り、海神供養の護摩供を修した。その満願の日、海中より阿弥陀如来が現れたので、府頭山(八幡山)に一宇を建立して安置したのが始まりとされる。その後、嵯峨天皇の勅願寺となったという。
貞観元年(859)行教上人が宇佐より八幡大神を奉じて山城に向かう途中、嵐にあって当地の沖を漂流した。その時、遠く眺めた府頭山の山容が男山に似ていることから山頂に八幡宮を勧請し、勝岡八幡宮と称して神仏習合の霊場となった。また一説には河野躬深が片岡に八幡大神を勧請し、勝岡八幡宮と称したともいう。
後に源頼義が現社地に遷し、山城国男山の石清水八幡宮を模して社殿を建立、社号も石清水八幡宮と改めたとされる。寂本の『四国徧礼霊場記』には、源頼義と河野親経が建立した伊豫国内49ヶ所の薬師堂と8社の八幡宮の随一であると記されている。古い社号標や納経帳に「伊豫一国」「一国一社」等の文言が見えることから、伊予国の一国一社八幡宮だったのだろうと思われる。
明治の神仏分離により栄福寺は独立。57番札所を引き継ぎ、山麓の現在地に移った。
本堂に置かれている箱車は、昭和8年(1933)に参拝した足の不自由な15歳の少年遍路が使っていたものである。栄福寺に参拝したとき、車を引いていた犬に引っ張られて転倒。ところが、起き上がったときには歩けるようになっていた。その霊験に感謝して奉納したという。
栄福寺への道を、境内に入らずに直進し、石段を上りきると、旧札所の石清水八幡神社が鎮座する。ここから今治平野・瀬戸内海の眺望は格別である。