名称 | 光耀山 千手院 観音寺 |
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御本尊 | 千手観世音菩薩 |
所在地 | 徳島県徳島市国府町観音寺49-2 [Mapion|googlemap] |
【本尊真言】
おん ばざらたらま きりく そわか
【御詠歌】
忘れずも導きたまえ観音寺 西方世界弥陀の浄土へ
【略縁起】
寺伝によれば天平13年(741)聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創したとされる。弘仁7年(816)弘法大師が滞在した際、等身大の千手観音の像を刻んで本尊とし、あわせて不動明王と毘沙門天の像を脇侍として安置したと伝えられる。かつては壮大な伽藍を誇ったというが、天正年間(1573~92)長宗我部の兵火で焼失し、万治2年(1659)に再興された。
観音寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は「本尊千手観音」。中央の宝印は蓮台上の円に千手観音の種字「キリーク」。右上の朱印は「四国十六番」、左下は「光耀山」。
(2)平成18年に拝受した納経。揮毫は千手観音の種字「キリーク」に「千手観音」。朱印は平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。版木押しで「奉納大乗妙典」「本尊千手観世音菩薩」「阿波光耀山」「観音寺」。中央に宝印はない。右上の朱印は「四国霊場第十六番」、左下は「光耀山」。
(2)天保12年(1841)の納経。揮毫は「奉納」「本尊千手観世音」「阿州光耀山 観音寺」。中央に宝印はない。右上の朱印は「第十六番」。左下の「光耀山」の印は天保11年のものと同じである。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉納」「千手観世音」「アハ(阿波)観音寺」。中央の宝印は蓮台上の円に千手観音の種字「キリーク」。右上の朱印は「第十六番」、左下は「光耀山」。
観音寺について
山号 | 光耀山(こうようざん) |
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寺号 | 観音寺(かんおんじ) |
院号 | 千手院(せんじゅいん) |
御本尊 | 千手観世音菩薩 |
所在地 | 徳島県徳島市国府町観音寺49番地2号 |
創建年代 | 天平13年(741) |
開山 | 行基菩薩 |
宗派等 | 高野山真言宗 |
覚え書き
古いたたずまいを残す町並みに立派な楼門が印象的な観音寺は、天平13年(741)聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開創されたと伝えられる。弘仁7年(816)四国を巡錫中の弘法大師が滞在し、等身大の千手観音を彫って本尊とし、不動明王と毘沙門天を脇侍としたという。
かつては壮大な伽藍を誇ったというが、天正年間(1573~92)長宗我部の兵火により灰燼に帰し、万治2年(1659)宥応法師が徳島藩主・蜂須賀氏の援助を受けて再興した。旧本堂は蜂須賀氏の寄進によるものだったというが、平成18年(2006)に改築された(2度目の巡拝時に聞いたところによると、当初は改修の予定だったが、予想以上に傷みが激しかったため、急遽改築されることになったという)。
当寺には弘法大師の筆跡を刻印したという光明真言の印判が伝えられる。希望すれば、白衣の襟に押印していただくことができる。
明治の頃、姑を柱に縛り付け、薪の燃え残りで折檻していたという女性の遍路が、この寺で雨宿りをしていると、雨でびしょ濡れだったにもかかわらず、突如として火に包まれて大やけどを負った。弘法大師の戒めと懺悔した彼女が奉納したという、その様子を描いた額が今も残る。
また、盲目の遍路の目が見えるようになった話など、霊験の多いことでも知られる。
なお、本堂の脇にある八幡総社両神社は、阿波国総社の論社である。