名称 | 藤井山 五智院 岩本寺 |
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御本尊 | 不動明王 観世音菩薩 阿弥陀如来 薬師如来 地蔵菩薩 |
所在地 | 高知県高岡郡四万十町茂串町3-13 [Mapion|googlemap] |
【本尊真言】
不動明王:のうまく さんまんだばざらだん せんだまかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん
観世音菩薩:おん あろりきゃ そわか
阿弥陀如来:おん あみりたていせい から うん
薬師如来:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
地蔵菩薩:おん かかか びさんまえい そわか
【御詠歌】
六つのちり五つの社あらわして ふかき仁井田の神のたのしみ
【略縁起】
江戸時代以前の37番札所は仁井田五社(仁井田大明神、現・高岡神社)であった。天平年間(729~49)行基菩薩が神宮寺の福円満寺をはじめとする7ヶ寺を開創した。弘仁年間(810~24)弘法大師が仁井田大明神を五つの社に分けて五社大明神とした。さらに5つの寺を建立し、先の7ヶ寺と合わせて仁井田十二福寺と称し、神仏習合の霊場として栄えた。福円満寺が廃寺となった後は岩本寺が別当となった。明治の神仏分離で廃寺となるが、明治22年(1889)再興された。
岩本寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は「五仏宝殿」。中央の宝印は八稜鏡に五つの梵字で、不動明王の種字「カーン」、阿弥陀如来の種字「キリーク」、聖観音の種字「サ」、薬師如来の種字「バイ」、地蔵菩薩の種字「カ」。右上の印は「四国第三十七番」、左下は「五智院岩本寺」。
(2)平成19年に拝受した納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納経」「五社大明神」「高岡(?)藤井山」「岩本寺」。中央の宝印は十六菊。右上の印は「四国三十七番」。左下は判読しづらいが「総社宮五智院役者印」か?
(2)天保12年(1841)の納経。版木押しで「奉納」「五社宮」「別当 岩本寺」。朱印は天保11年のものと同じ。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉納」「阿弥陀如来」「岩本寺」。中央の宝印は蓮台上の火炎宝珠に御本尊五仏の種字「カーン」「キリーク」「カ」「バイ」「サ」。右上の印は「四国三拾七番」、左下は「藤井山岩本寺納経所」。
岩本寺について
山号 | 藤井山(ふじいざん) |
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寺号 | 岩本寺(いわもとじ) |
院号 | 五智院(ごちいん) |
旧称 | 岩本坊 |
旧札所 | 仁井田五社(高岡神社)・福円満寺 |
御本尊 | 不動明王 観世音菩薩 阿弥陀如来 薬師如来 地蔵菩薩 |
所在地 | 高知県高岡郡四万十町茂串町3番13号 |
創建年代 | 天平年間(729~49) |
開山 | 行基菩薩 |
宗派等 | 真言宗智山派 |
文化財 | 〈国宝〉文化財の名前)〈重文〉文化財の名前 |
備考 | 七福神など |
覚え書き
37番札所も複雑な経緯をたどっている。御詠歌にもあるとおり、本来の札所は仁井田五社〔にいだごしゃ〕(仁井田大明神・高岡神社)であった。現在の本尊である阿弥陀如来・観世音菩薩・不動明王・薬師如来・地蔵菩薩は五社大明神の本地仏である。
仁井田大明神は伊予国の越智守興〔おちのもりおき〕の子・玉澄が高岡郡仁井田郷に移り住み、祖神を祀ったことに始まるという。
天平年間(729~49)行基菩薩は聖武天皇の勅願により、神宮寺として福円満寺を建立した。さらに『仁王経』の「七難即滅、七福即生」を祈願し、天の七星を象って宝福寺・長福寺など六つの寺を建立し、合わせて七福寺と称した。
天長3年(826、一説には弘仁年間)弘法大師が仁井田大明神の六柱の御祭神を五つの社に分けて五社大明神と称した。さらに五つの寺を建立して、先の七ヶ寺と合わせて仁井田十二福寺と総称し、星供の秘法を修した。嵯峨天皇の勅願寺となり、神仏習合の霊場として栄えたという。
ところが、享禄から天文の頃(1528~55)火災で福円満寺が廃寺となったため、当時別当であった金剛福寺住職の尊海法親王が窪川に岩本坊を建立し、法灯を継がせた。しかし、これも天正年間(1573~92)に焼失し、僧釈長が再興して岩本寺と改称した。以来、岩本寺が仁井田五社の別当となり、巡拝者は仁井田五社に札を納めた後、岩本寺で納経を行った。
明治以降の経緯はさらに複雑である。
明治初めの神仏分離で廃寺とされ、明治22年(1889)に再興された。しかし、この間も岩本寺の名で納経が行われている。非公認の仏堂のような形で存続していたのではないかと思われる。また、高岡神社(元の仁井田五社)が旧三十七番として納経している例もある。
一方、明治から大正(もしくは昭和)にかけて、伊予八幡浜の大黒山吉蔵寺が37番札所を名乗っていた。吉蔵寺は大黒屋5代の野本定固が明治18年(1885)大黒屋3代吉蔵定成の名を取って創建した。そして、衰微していた岩本寺から3,500円で本尊と納経の印を買い取り、37番札所を称した。大正7年(1918)四国を巡拝した高群逸枝の『娘巡礼記』によれば、八幡浜に上陸した後、すぐに吉蔵寺に参拝しており、37番札所の本尊と納経の印が伝わっていることを記している。当時は札所が2ヶ所並立していたようだ。
吉蔵寺については下記ブログが詳しい。
幻の37番札所大黒山吉蔵寺:八幡浜市(愛媛西方圏ブログ)
こちらには大正9年(1920)の吉蔵寺の納経が掲載されているが、中央の宝印は明治10年代半ばに岩本寺で使われていた宝印と同じもののようだ。
後に岩本寺から本尊と納経印の返還を求めて裁判が起こされ、岩本寺側が勝訴したため返還されたということである。ただし、いつ頃本尊などが返還され、札所が一本化されたのかなどは不詳である。
岩本寺には大師の七不思議が伝わる。すなわち子安桜、戸建てずの庄屋、筆草、尻なし貝、三度栗、口なし蛭、桜貝である。なお、奥の院とされる矢負いの地蔵は大師堂に祀られている。