名称 | 東山 瑠璃光院 繁多寺 |
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御本尊 | 薬師如来 |
所在地 | 愛媛県松山市畑寺町32 [Mapion|googlemap] |
【本尊真言】
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
【御詠歌】
よろずこそ繁多なりとも怠らず 諸病なかれと望み祈れよ
【略縁起】
寺伝によれば、天平勝宝年間(749~57)孝謙天皇の勅願により行基菩薩が開創した。元は光明寺と称したが、弘仁年間(810~24)弘法大師が滞在した時、繁多寺と改めたという。また、時宗の開祖・一遍上人が正応元年(1288)に参籠し、父・如仏の浄土三部経を奉納したことが『一遍聖絵』に記されている。
繁多寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は「薬師如来」。中央の宝印は蓮台上の火炎宝珠に薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「四国五十番」、左下は「繁多密寺」。
(2)平成18年に拝受した納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。版木押しで「奉納経」「本尊医王殿」「伊豫国」「繁多寺」。朱印はかすれているが、天保12年の納経から判断して、中央の宝印が火炎宝珠に薬師如来の種字「バイ」、右上が「五拾番」、左下が「四宗兼学」。
(2)天保12年(1841)の納経。版木・朱印ともに天保11年のものと同じ。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉納」「本尊薬師如来」「繁多寺」。中央の宝印は蓮台上の火炎宝珠に薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「四国第五十番」、左下は「繁多寺印」。
繁多寺について
山号 | 東山(ひがしやま) |
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寺号 | 繁多寺(はんたじ) |
院号 | 瑠璃光院(るりこういん) |
御本尊 | 薬師如来 |
所在地 | 愛媛県松山市畑寺町32番地 |
創建年代 | 天平勝宝年間(749~57) |
開山 | 行基菩薩 |
宗派等 | 真言宗豊山派 |
覚え書き
天平勝宝年間(749~57)孝謙天皇の勅願により行基菩薩が開創した。本尊の薬師如来は行基菩薩の作とされる。元は光明寺と号したが、弘仁年間(810~24)弘法大師が留錫し、繁多寺と改めたとされる。一説には天皇自ら法具の幡を納めたことから「幡寺(畑寺)」と称されたともいう。
その後寺運は衰えたが、伊豫の国司・源頼義の命により、河野親経が国内四十八の薬師堂の一つとして再建されたという。弘安2年(1279)後宇多天皇の勅命により聞月上人が蒙古退散の祈願をした。京都東山の泉涌寺との関わりが深く、応永元年(1394)には後小松天皇の綸旨により泉涌寺二十七世となった快翁和尚が住職に就任している。
時宗の開祖である一遍上人は、正応元年(1288)最後の帰郷の際に当寺にも参籠し、父・如仏の浄土三部経を奉納した。
天和年間(1681~84)に住職となった龍湖和尚は徳川家の帰依を受けた。本堂脇の歓喜天堂に祀られている歓喜天は、四代将軍家綱が自らの念持仏を寄進したものである。
かつては天台・真言・禅・浄土の四宗兼学であったことから、江戸時代の納経には「四宗兼学」の印が押されている。