名称 | 近見山 宝鐘院 延命寺 |
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御本尊 | 不動明王 |
所在地 | 愛媛県今治市阿方甲636 [Mapion|googlemap] |
【本尊真言】
のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん
【御詠歌】
くもりなき鏡の縁とながむれば 残さず影をうつすものかな
【略縁起】
養老4年(720)聖武天皇の勅願により行基菩薩が近見山に開創したと伝えられる。弘仁年間(810~24)嵯峨天皇の勅願により弘法大師が再興し、円明寺と名付けたという。焼失と再建を繰り返し、享保12年(1727)山麓の現在地に移転再興された。明治になって郵便制度ができると、同名の53番円明寺と間違えられるようになったため、通称の延命寺を正式名称とした。
延命寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は「不動明王」。中央の宝印は蓮台上の宝珠に不動明王の種字「カーン」。右上の印は「四国五十四番」、左下は「宝鐘院」。
(2)平成18年拝受の納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納経」「本尊不動明王」「近見山」「円明寺」。中央の宝印は勅願所であることを示す十六菊と五三桐の御紋。右上の印は「五十四番」、左下は現在のものとよく似た「宝鐘院」。
(2)天保12年(1841)の納経。揮毫は「奉納」「本尊大聖不動明王」「近見山」「圓明寺」。朱印は天保11年のものと同じ。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉納」「不動殿」「延命寺」。中央に宝印はなし。右上の印は「四国五十四番」、左下は「宝鐘院」。
延命寺について
山号 | 近見山(ちかみざん) |
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寺号 | 延命寺(えんめいじ) |
院号 | 宝鐘院(ほうしょういん) |
旧称 | 円明寺(えんみょうじ) |
御本尊 | 不動明王 |
所在地 | 愛媛県今治市阿方甲636番地 |
創建年代 | 養老4年(720) |
開山 | 行基菩薩 |
宗派等 | 真言宗豊山派 |
文化財 | 〈国宝〉文化財の名前)〈重文〉文化財の名前 |
備考 | 七福神など |
覚え書き
寺伝によれば、養老4年(720)聖武天皇の勅願により行基菩薩が近見山の頂上に開創した。嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が伽藍を再興し、不動院円明寺と号したという。鎌倉時代には東大寺の示観国師凝念〔じかんこくし ぎょねん〕が滞在し、『八宗綱要〔はっしゅうこうよう〕』を執筆したことでも知られる。
最盛期には山上に七堂伽藍を備え、谷々には100坊を誇ったというが、長宗我部氏の兵火などにより悉く焼失した。この時、名鐘として知られていた当寺の梵鐘を長宗我部の兵士が略奪し、船に積んで海上へ出た。すると、鐘が急に動き出して海中に落ちて略奪されることを拒んだという。
享保12年(1727)現在地に移転再興された。それに先立ち宝永元年(1704)梵鐘が再鋳された。第二次大戦の金属供出も免れた名鐘で、宝鐘院の院号もこれに由来する。この梵鐘は近見二郎と呼ばれ、現在は除夜の鐘にのみ鳴らされる。
境内には、阿方の庄屋であった越智孫兵衛の墓がある。孫兵衛は池普請の際、農民たちに弁当として麦粥を入れただけの竹筒を持たせ、さりげなく代官に農民の窮状を訴えた。その結果、七公三民だった税率が六公四民に引き下げられ、享保の大飢饉には一人も餓死者を出さなかった。
また、同じく境内にある真念法師による道標は四国で2番目に古いものという。「左へんろ道 願主真念」の文字が見える。
明治になって郵便制度ができると、たびたび53番札所の円明寺と間違えられるようになったため、通称の延命寺を正式名称とした。
奥の院は山門を入ってすぐ左側にある薬師堂で、圓明寺と称する。