報新山 宗延寺(読経祖師)

宗延寺

名称 報新山 宗延寺
通称 下谷宗延寺
祖師像 読経の祖師
所在地 東京都杉並区堀ノ内3-52-19 [Mapion|googlemap]

【略縁起】
天正(1573~91)の初め、小田原の鄕士・報新宗延が一寺を建立し、三光院日精上人に寄進したことに始まる。後北条氏が滅びた後、江戸の下谷車坂に寺地を賜って再興された。谷中の瑞輪寺、下谷の善立寺とともに身延山久遠寺末の触頭であった。祖師像は「読経の祖師」として知られ、信仰すれば声がよくなるという霊験で信仰を集めた。特に声が大切な歌舞伎役者が信仰したという。

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宗延寺の御首題

  • 下谷宗延寺の御首題

御題目の両脇に「江戸触頭」「読経祖師」。中央の朱印は、両脇が「奉新山」「宗延寺」、中央は「実□印」のようだがよくわからない。左下は「報新山宗延寺」。

宗延寺について

山号 報新山(ほうしんざん)
寺号 宗延寺(そうえんじ)
院号
通称 下谷宗延寺
御本尊 三宝尊
祖師像 読経祖師
所在地 東京都杉並区堀ノ内三丁目52番地19号
創建年代 天正年間(1573~91)
開山 三光院日精上人
開基 精修院日俒上人
宗派等 日蓮宗

覚え書き

環状七号線沿いにある。境内に入って、右側に本堂、左側に客殿。客殿は大正天皇の御産室を移築したものという。あまり奥行きのない境内という印象だが、これは道路拡張で境内が削られたためらしい。付近は堀ノ内の厄除祖師として名高い妙法寺のほか、明治以降に都心から移転してきた寺院が建ち並び、寺町を形成している。

天正年間の初め頃、小田原の郷士・報新〔あたらし〕宗延が小田原城下に一宇を建立し、三光院日精上人に寄進したことに始まるという。報新宗延が没すると、日精上人はその菩提を弔うため、山容を整えて報新山宗延寺と号したという。また、この時に身延山の直末となった。山号寺号のいずれかを外護者の名に因んでつけることはよくあるが、両方を外護者に因むのは珍しいという。

日精上人の後を継いだ精修院日俒上人は、天正18年(1590)小田原の後北条氏が滅びると、その混乱を避けて江戸に逃れた。翌19年(1591)谷中瑞輪寺の日新上人の推挙により家康に召され、下谷・車坂(現在の台東区東上野)に3,250坪の土地を賜って宗延寺を再興した。これにより、宗延寺では日精上人を開山上人、日俒上人を開基上人とする。

江戸時代には塔頭5ヶ寺を擁し、谷中の瑞輪寺、下谷の善立寺(現在は足立区梅田に移転)とともに身延山久遠寺の江戸触頭であった。

貞享元年(1684)江戸城中で大老・堀田正俊を刺殺した若年寄・稲葉正休は、自身もその場で斬り殺されて宗延寺に葬られた。その際に用いられた刀は、今も宗延寺に所蔵されているという。

明治41年(1908)寿仙院と正寿院を合併、大正8年(1919、一説に同7年)現在地に移転した。昭和37年(1962)環状七号線の拡張のため、境内地の一部が削られた。

当寺の祖師像は「読経の祖師」として知られる。この尊像は十二中老僧(六老僧に準ずる日蓮聖人の直弟子)の一人で、彫刻の巧みなことでも知られる日法上人の手になるものと伝えられる。

伝承によれば、元は小田原のある農家に伝わっていたものという。先祖が旅の僧侶から預り、土蔵にしまっておいたのだが、しばしばその土蔵の中から読経唱題する声が聞こえてきた。このような霊験あらたかな尊像を預かっているのは勿体ないと、近くにあった宗延寺に納められ、「読経の祖師」と呼ばれるようになった。後に日俒上人は、この像を背負って江戸へ向かったという。

この読経の祖師は、信仰すれば声がよくなるといって広く信仰を集めた。特に声が大切な歌舞伎役者などが深く信仰したようで、今も境内に置かれている寛政9年(1797)奉納の手水鉢には芝居関係者36人の名前が残されている。

写真帖

  • 門前風景

    門前風景

  • 手水鉢

    手水鉢

  • 寿福稲荷

    寿福稲荷

  • 客殿

    客殿

  • 本堂

    本堂


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