
五十稲荷神社は慶長年間(1596~1615)以前の創祀と伝えられ、正徳の頃(1711~15)足利藩主・戸田氏の江戸屋敷の邸内社となった。本来の名称は栄寿稲荷神社。足利の織物市に倣って五と十の日に月次の祭りを行い、諸人の参詣を許した。明治以降も五と十の日に縁日の市が立ち、「五十〔ごとお〕の縁日」と呼ばれた。これが「五十稲荷」の名の由来という。
| 正式名称 | 稲荷神社〔いなりじんじゃ〕 |
|---|---|
| 通称 | 五十稲荷神社〔ごとう/ごとおいなりじんじゃ〕 |
| 御祭神 | 保食神 |
| 社格等 | 旧無格社 |
| 鎮座地 | 東京都千代田区神田小川町3-9 [Mapion | googlemap] |

御朱印







(1)平成17年拝受の御朱印。朱印・墨書ともに「五十稲荷神社印」。
(2)令和3年6月拝受の御朱印、書き置き。中央の朱印は「五十稲荷神社印」。右に抱き稲の神紋。
(3)令和3年11月拝受、月参りの御朱印。中央の朱印は「五十稲荷神社印」、右に抱き稲の神紋の印。
(4)令和3年11月拝受、月参りの神紋。中央の朱印は「五十稲荷神社印」小型の印。右に抱き稲の神紋。下のスタンプは古本まつりをイメージしたものであろう。
(5)令和5年拝受、初午の御朱印。中央の朱印は「五十稲荷神社印」、上の金印は「宇賀御魂榮壽稲荷神社」。下の夫婦狐には「初午」「来福」。
(6)令和7年拝受の御朱印。中央の朱印は「五十稲荷神社印」、下に夫婦狐の紋。
(7)令和7年拝受、初午の御朱印。右に榮壽稲荷神社、印は「宇賀御魂榮壽神社」。左に五十稲荷神社、印は「五十稲荷神社印」。
御由緒

五十稲荷神社の創建については詳らかではないが、慶長の頃(1596~1615)には既に鎮座しており、徳川家において安産守護神として崇敬されていたという。あるいは山城国の伏見稲荷より御分霊を勧請したものともいう。
正徳の頃(1711~15)足利藩主・戸田氏がこのあたりを拝領して上屋敷を構えたため、当社の社地もその邸内に含まれることとなった。戸田氏は足利の陣屋大門に祀っていた稲荷大神(現・足利市雪輪町の栄富稲荷神社)を勧請・合祀し、栄寿稲荷大明神として崇敬した(資料では「永寿」と書いている例も多い)。
古くより足利においては五と十のつく日には織物の市が開かれていたため、戸田氏の江戸屋敷においても五と十の日に月次の祭を執り行い、月々の祭日と初午の日には門戸を開放して諸人の参詣を許していた。
神社の由緒書によれば、明治5年(1972)公認の神社になったとされる。しかし、明治13年(1880)には戸田忠行が東京府の社寺掛に「邸内社堂共有となし衆庶参拝願」を提出しているので、実際に公認の神社となったのはこの頃だったのではないかと思われる。
明治25年(1892)戸田氏が転居し、当社の祭祀も信者と地域の人々によって行われることとなったが、旧来の習わしで五と十の日には多くの参拝者が集まり、縁日の市が立った。それが「五十〔ごとお〕の縁日」として知られるようになり、神社も「五十稲荷」と呼ばれるようになった。
戦前まで、五十の縁日には五百軒近い店が出て、都内でも屈指の市であったという。
明治26年(1893)の『頴才新誌』は、その賑わいを以下のように記している。
街上の両側筵を展べ、席を構え、商品をその上に鱗列す。もしそれ暮鐘一杵月を敲き、金烏已に西に落つれば、即ち満街化して不夜城となり、万灯爛々星の如く路傍に列し、光焔万丈、まさに天を焦がさんとす。老弱億を加え、士女万を倍す。満街只人のみ、人の外人を見ず、人已に人に酔う。蒸熱云うべからず、喧嘩雑踏、耳まさに聾せんとす。心已に狂せんと欲す。錦第一、第二街は橐駝師(植木屋)の市なり。橐駝師数百人両々相対して、路を挟み列す。珍花奇木を蒐集し、以て客の求めに応ず。一たびこの街に入れば、奇香芬々衣に薫じ、花気馥郁花を撲ち、心爽に神快く、また云うべからず。
『東京名物志 改訂増補』(明治34年)によれば、当時の社掌・鳥居直正は幕末に尊皇の志士として活躍した人物で、文久年間(1861~64)「陛下叡威不斜」との勅諚を賜った。これを御魂神霊として奉斎したので、毎月30日にはかつての同志やその子孫が多く参拝したという。
また同書には、当社で授けられる白豆を両断して祈請する呪文を書き、再び元の形に合わせて産前40日頃に服用すると安産の効験が著しいとして、広く妊婦の信仰を集めたと記されている。
元は現社地の隣地に200坪の境内を有していたが、大正12年(1923)の関東大震災で全焼。昭和3年(1928)東京市の土地区画整理により現社地に遷座再建した。
昭和20年(1945)戦災で再び烏有に帰したが、昭和25年(1950)に再建された。
令和3年(2021)旧社殿が老朽化したため、社殿や社務所等を新築した。
写真帖

全景。新築間もない令和3年の撮影。

鳥居。以前と同じもののように思われる。

社殿。新築の社殿ではあるが、扉などは旧社殿のものを使っているように思われる。

社殿の扁額。昭和26年(1951)に奉納された旧社殿のものを使っている。

水盤。

狐塚。古い神狐が安置されている。

御神木の銀杏。関東大震災や第二次大戦で焼かれたが、力強く復活している。

道路側から社殿と御神木。
時間の経過とともに境内の様子も変わっているようだ。

令和6年に撮影。御朱印で人気を集めるようになり、参拝者が次々と訪れていた。

境内は樹木や草木が生長し、緑であふれていた。

絵馬掛け。

令和7年の初午、夕刻に参拝した。提灯に灯が入り、昼間とは違う風情があった。

社殿もライトアップされていた。
旧観

旧観。朱の鳥居は現在のものと同じように思われる。

旧社殿。

拝殿の扁額。現在の社殿にも掲げられている。

狐塚。当時は道路側にブロック塀があった。
メモ

靖國通りから一本南の通りにある小さな神社。参拝は平成17年の4月。
後で知ったことだが、五十稲荷では宮司さんの身体が悪いため、通常、墨書していただけないらしい。それを知らずに御朱印をお願いしたところ、体調がよかったのか、快く墨書していただけた。さらに、社名の「五十」がなかなか読めないからということで、わざわざルビを振ってくださった。

平成28年に参拝した際、社殿の建て替えに関する掲示を見た。令和3年、新社殿が落成した後に参拝、御朱印をいただいた。その頃から御朱印で人気を集めるようになり、いつ参拝しても御朱印をいただく参拝者の姿を見る。社務所の雰囲気もよく、大都会のオアシスという印象の神社である。
五十稲荷神社の概要
| 名称 | 稲荷神社 |
|---|---|
| 通称 | 五十稲荷神社 |
| 旧称 | 栄寿稲荷大明神 |
| 御祭神 | 保食神〔うけもちのかみ〕 |
| 鎮座地 | 東京都千代田区神田小川町三丁目9 |
| 創建年代 | 不詳(慶長年間以前) |
| 社格等 | 旧無格社 |
| 例祭 | 4月15日 |
| 神事・行事 | 1月5日/歳旦祭 2月上午の日/初午祭 12月5日に近い日曜日/新嘗祭 |
交通アクセス
□淡路町駅(丸ノ内線)より徒歩5分
□新御茶ノ水駅(千代田線)より徒歩5分
□小川町駅(都営新宿線)より徒歩5分
□神保町駅(半蔵門線・都営新宿線・都営三田線)より徒歩5分
参考資料
・五十稲荷神社由緒書・境内掲示
・五十稲荷神社事務局サイト
・『頴才新誌 第834号』(明治26年)
・『東京名物志 改訂増補』(明治34年)
・『平成「祭」データ』
・東京都神社庁公式サイト
更新履歴
2006.01.29.公開
2016.09.29.改訂、Wordpressへ移行、画像を追加。
2026.03.16.改訂、御朱印と画像を追加。

