簸川神社

簸川神社

簸川神社は孝昭天皇3年(B.C.473)の鎮座とされ、源義家が奥州下向の際に参籠したともいう。室町時代、伝通院を開いた了誉聖冏上人によって再興された。元は現在の小石川植物園に鎮座していたが、承応元年(1652)白山御殿の造営のため原町(現・白山四丁目)に遷座、さらに元禄12年(1699)現社地に遷座した。
文京区の神社

正式名称 簸川神社〔ひかわじんじゃ〕
御祭神 素盞嗚命 大己貴命 稲田姫命
社格等 旧村社
鎮座地 東京都文京区千石2-10-10 [Mapion|googlemap]
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御由緒

簸川神社は小石川総社と称され、江戸時代には小石川の大部分を氏子としていたという。また、江戸の七氷川の一つにも数えられていた。

江戸時代以前は氷川明神社、明治以降は氷川神社と称していた。大正の頃、「氷川」の社号に疑問を持ち、学者に研究を依頼して「簸川」の字が適切との結論を得、氏子中に図って社号を改めたという。

社伝によれば孝昭天皇3年(B.C.473)の鎮座という。八幡太郎義家が奥州に下向する折、当社に参籠したと伝えられる。

室町時代、小石川極楽水に伝通院の元となる草庵を結んで隠棲した了誉聖冏上人(伝通院開山で浄土宗鎮西派第七祖)が、荒廃していた当社の社地社殿を再興したという。由緒書によれば、応永29年(1414)に社殿を造修したと棟札にあるそうだが、この時のことであろうか。因みに江戸時代の別当は極楽水の庵の旧跡を再興した宗慶寺であった。

当社の本来の鎮座地は白山御殿跡(現・小石川植物園)の貝塚の古墳上で、江戸時代の初めには白山神社・女体宮と並んで鎮座していた。承応元年(1652)4代将軍家綱の弟・徳松(後の5代将軍綱吉)の別邸(白山御殿)が営まれることとなり、白山神社は指ヶ谷町の現社地に、女体宮は伝通院内に遷り、当社は原町(現在の白山4丁目20番地あたり)に遷された。さらに元禄12年(1699)景勝地とされた高台の現社地に遷座している。

明治5年(1872)村社に列格(※『小石川区史』では明治9年となっているが、東京都公文書館の情報検索システムでは明治5年に「村社に被定候件 第四大区十小区(小石川区)小石川林町 氷川神社」がある)。

昭和初期に改築された荘厳な社殿は昭和20年(1945)の空襲により焼失し、同33年(1958)現在の社殿が再建された。

御朱印

  • 簸川神社の御朱印

平成17年に拝受した御朱印。中央の朱印は「氷川神社之院」、右上に流れ三つ巴の神紋。

写真帖

  • 参道

    参道と社号標

  • 鳥居

    鳥居

  • 五社神社

    五社神社

  • 神楽殿

    神楽殿(水谷殿)

  • 手水舎

    手水舎

  • 境内社

    水神社と白宝稲荷神社

  • 東宮殿下御来臨碑

    東宮殿下御来臨碑

  • 拝殿

    拝殿

  • 本殿

    本殿

メモ

現在は社殿の裏まで住宅に囲まれ、街中の小さなお社という印象だが、『江戸名所図会』などを見ると、高台の上に広い境内を持っていたことがわかる。石段の下には田畑が広がっており、さぞかし眺めがよかったのだろうと思われる。
社殿のそばにある「東宮殿下御来臨碑」は、明治23年(1890)大正天皇(当時は皇太子)が小石川植物園を訪問された際に参拝されたことを記念して建てられたものである。

簸川神社の概要

名称 簸川神社
旧称 氷川神社 氷川明神社
御祭神 素盞嗚命〔すさのおのみこと〕
大己貴命〔おおなむちのみこと〕
稲田姫命〔いなだひめのみこと〕
鎮座地 東京都文京区千石二丁目10番10号
創建年代 伝・孝昭天皇3年(B.C.473) 
社格等 旧村社
例祭 9月9日・10日前後の土・日曜日

交通アクセス

□東京メトロ丸ノ内線「茗荷谷駅」より徒歩6分
□都営三田線「千石駅」より徒歩13分
□JR山手線「大塚駅」よりバス
■都バス上野公園行き「湯立坂下」下車徒歩2分

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コメント

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