明治維新は日本のあらゆる分野に変化をもたらした。数々の変革の中で、御朱印の歴史に大きな影響を与えたのは、次の3点だろうと思われる。
1.神仏分離
2.六十六部の禁止
3.庶民の移動の自由化
特に庶民の移動の自由化により、信仰を名目としない観光旅行が徐々に広がった。四国・西国などの霊場巡拝は低迷し、強い信仰的な動機を持つ人以外、わざわざ旅行に納経帳を携行する人も激減したと思われる。
しかし、寺社を参詣したときに押印してもらうという習慣は根強く残ったようで、明治30年代あたりから参拝記念としてはがき・絵はがきに押印してもらう習慣が広がった。これに大きな影響を与えているのが記念スタンプの登場である。
これらが背景となって、大正時代の折り本式集印帖の登場、昭和初期の集印ブームへとつながっていく。
神仏分離と六十六部の禁止
奈良・平安時代以来、千年余りにわたって神仏習合が日本の宗教の伝統であった。
多くの神社には別当寺があって僧侶が神事を司っていた。また多くの寺院には伽藍鎮守の神々が祀られ、中には本尊より信仰を集めることさえあった。八幡大菩薩や蔵王権現、牛頭天王といった神仏習合の神々や、弁財天(市杵島比売命)や大黒天(大国主命)など日本の神々と習合したインド渡来の神々も、日本古来の神々と同じように祀られ、村や町の鎮守とされていた。
ところが、明治元年(1868)新政府より出された神仏判然令によりこれらの伝統が禁止され、各寺社は神道の神社であるか、仏教の寺院であるかを明確にさせるように命じられた。これが一部で過激化して廃仏毀釈運動となり、多くの文化遺産が失われた。
日本の主な霊場のうち、もっとも大きな影響を受けたのが四国八十八ヶ所である。江戸時代以前の四国八十八ヶ所は神仏習合の霊場であり、10ヶ所程度の札所が神社であった(27番、64番などを神社とするか寺とするかで数が変わる)。明治以降は神社が札所から外れ、すべて寺院のみで構成されるようになった。その過程では寺が神社とされたり、別当寺が廃寺となったりしたことにより、札所寺院の兼務や移動があり、札所が並立して正統性を争うなどという事態も起こった。
また、神仏分離の一環として明治4年(1871)の太政官布告により、山伏・虚無僧などとともに職業的宗教者としての六十六部が禁止された。因みに、現代でも山伏は残っているが、明治以降は僧侶か俗人が山伏としての修行を行っているのであって、職業的宗教者としての山伏はいなくなっている。
それでも山伏や虚無僧は今でも知られているが、六十六部はほとんど忘れ去られてしまった。その結果、納経帳がもともと六十六部に関わるものであったということも忘れられてしまい、御朱印の起源がよくわからないということになったのだろう。
また、神仏分離の結果、神社のみ、寺院のみの納経帳・順拝帳が登場している。現在、広く行われている神社・寺院の御朱印帳は、この時代に始まったといえるだろう。
庶民の移動の自由化
江戸時代、庶民の旅行は商用以外、信仰のための寺社参詣か、病気療養のための湯治に限定されていた。逆に言えば、寺社参詣も湯治も物見遊山(観光旅行)のための名目だったわけである。信仰と娯楽が分けられない時代であり、納経帳が庶民に広まった理由も、単純に信仰的な動機だけではなく、写真も何もない時代の旅行記念という側面もあっただろう。
明治2年(1869) 明治政府は江戸幕府が設けていた関所を全廃し、庶民の移動が自由になった。それでも最初は届け出が必要とされていたそうだが、まもなく有名無実化し、明治10年代の前半には旅行の自由化が実現していたようである。
これが何を意味するかというと、信仰や湯治という名目がなくても旅行ができるようになったということである。
明治になって四国や西国の巡礼が低迷したといわれる。神仏分離や文明開化による価値観の変化などが主要な要因であろうが、旅行の自由化による影響も大きいと思われる。
逆に言えば、明治の頃の納経帳・順拝帳は、信仰的な動機がもっとも強かった時期かもしれない。まだ、それほど交通の便がよくなっていないため、気軽に遠方への観光旅行に出かけたとは思えないからである。四国や西国の巡礼が低迷したとはいえ、数多くの明治時代の納経帳が残っている。
はがき・絵はがきへの押印
旅行が自由にできるようになったとはいえ、長く信仰(寺社参詣)と娯楽(物見遊山)が一体となっていた日本においては、有名な観光地の多くが神社仏閣である。
交通機関が発達するにつれて観光旅行も一般化し、観光を主たる目的とする参拝者(観光客)が増えていったと思われる。そして、信仰を主たる目的としない観光客にも、神社仏閣を参拝したときには朱印を押してもらうという習慣が残っていたようで、明治の終わりになると、はがきや絵はがきに寺社の印を押してもらう例が見られる。
はがきに押されている印は、このページの一番上にある金刀比羅宮の絵はがきのように、通常の御朱印に使うものとは別の可能性のあるものもある。しかし、金閣寺の絵はがきや讃岐国分寺の御朱印を押した官製はがきのように、明らかに通常の御朱印を押したものも多い。
さて、ではなぜはがきや絵はがきに押したのかということだが、これは記念スタンプの影響だと考えられる。
これまで見てきた限りでは、はがきや絵はがきへの押印は明治39年が最も古い。そして、興味深いことには、この年に記念スタンプブームが起きているのである。
記念スタンプの登場
石井研堂の『明治事物起原』(明治41年)によれば、記念スタンプの始まりは明治35年(1902)6月20日、万国郵便連合加盟25年祝典記念の記念絵はがきを発行したときだという。
さらに日露戦争戦勝の翌年である明治39年(1906)の4月から5月にかけて、「明治卅七八年戦役陸軍凱旋観兵式」と「明治卅七八年戦役帝国海軍紀念日」の記念スタンプが大変な人気を集め、スタンプブームというべき状況が起きた(当時は「記念」ではなく「紀念」を使った)。
本来、記念スタンプは消印として郵便局で押されるものだった。陸軍凱旋観兵式に併せて行われた靖国神社の臨時大祭でも記念スタンプがあったが、それは大祭紀念郵便局が設けられ、そこで押されたようだ。
明治39年9月25日発行の『風俗画報』349号を見ると、当時、多くの人が記念スタンプを押してもらうために郵便局に押し寄せたことがわかる。『明治事物起原』によれば、スタンプブームは一時的なものだったようだが、その後、記念スタンプに広がり、寺社でも参拝紀念のスタンプが押されるようになった。
私の手許にある資料の中で、最も古い参拝記念スタンプは、明治39年11月、京都の愛宕神社の千二百年祭紀念のスタンプである。
さらに明治40年のものでは熱田神宮、銀閣寺、西大寺の会陽紀念のスタンプなどがあり、かなり広がっている様子が覗える。
ところで、消印から発展した記念スタンプは、郵便局以外で使われるようになってからも絵はがきに押すのが一般的だったようだ。その影響を受け、寺社の印をはがきや絵はがきに押すようになったのであろう。つまり、この当時、すでに寺社の印を記念スタンプと同様のものと考える人たちがいたと考えられるのである。
それを窺わせる実例として、明治42年(1909)の御室浅間神社の宝物(武田信玄公祈願状)の絵はがきがある。
これには御室浅間神社の宝物展覧会紀念のスタンプと、御室浅間神社・浅間大社奥宮の朱印、富士山頂上登拝紀念のスタンプが押されている。今では考えられないことだが、当時は寺社の側もそれほどのこだわりがなかったのだろう。
はがきでの集印
記念スタンプの影響を受けてはがきや絵はがきへの押印が行われるようになったが、さらに進んではがきを使って集印を行う人たちも現れたようである。その一例として、明治40年代の京都の人のコレクションから紹介しよう。
明治41年(1908)三井寺の御朱印。裏面に御朱印が押され、表面には拝受年月日や寺社名等が書かれている。延寿講というグループで近江の霊場を巡拝したときのようなものである。
明治40年(1907)土佐神社の御朱印。「岩村貞蔵氏蔵」とあり、当時の著明な蒔絵師である岩村貞蔵から譲られたもののようだ。御朱印の印文も興味深く「建依別総鎮守」とある。「建依別」は古事記に見える土佐国の神名である(因みに隣の伊予国は「愛比売」で愛媛の県名になっている)。
同じく「岩村貞蔵氏蔵」とある明治40年、小御門神社の御朱印。順拝帳と同じように「別格官幣社 小御門神社」という墨書がある。朱印は神璽である。
同じコレクションの中には、拓本を取っているものもある。
明治40年、金戒光明寺。はがきではないが、同じサイズの用紙に朱印を押し、その上に拓本を取っている。「第二回巡礼紀念会」とは銘打っているが、信仰より観光的な意味合いが強かったのではないかと思われる。
これらを見ると、寺社の印を記念スタンプと同じようなものとしてコレクションする人が現れていたこと、しかもそれらの人たちが同好の士でグループを作っていたらしいことがうかがえる。
はがきへの押印が信仰や納経帳という枠組みを取り外し、観光を含む寺社参拝の記念として寺社の印をいただくという習慣を定着させたといえるだろう。それが携行に便利な集印帖の登場を促すことになったのだろう。
(平成29年4月23日公開、令和元年11月21日改訂)