於岩稲荷田宮神社は、鶴屋南北の傑作『東海道四谷怪談』のモデルとなったお岩さん(田宮於岩)ゆかりの神社。元は田宮家の邸内社であった。明治12年(1879)左門町の火事で社殿が焼失したのを機に越前堀の田宮家敷地内に遷座(中央区新川の於岩稲荷田宮神社)。昭和27年(1952)四谷の旧社地に飛地境内社として当社が再興された。
正式名称 | 於岩稲荷田宮神社〔おいわいなり たみやじんじゃ〕 |
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御祭神 | 豊受比賣大神 田宮於岩命 |
社格等 | - |
鎮座地 | 東京都新宿区左門町17 [Mapion|googlemap] |
御朱印
平成17年拝受。中央の揮毫は「有事人生」。中央の朱印は陰陽勾玉巴の神紋(田宮家の家紋)、左下は「田宮神社」。「有事人生」は、人生というのは平穏無事なものではなく、そもそもいろいろなことがあると覚悟して生きていくべきとの意味とのこと。
御由緒
於岩稲荷田宮神社は、鶴屋南北の傑作『東海道四谷怪談』の主人公・お岩さんゆかりの神社として知られる。
歌舞伎や演劇で四谷怪談を演じるときには、於岩稲荷に参拝しなければ祟りがあるという俗信は有名だが、於岩稲荷に伝わる話はずいぶん違っている。それによれば、お岩さんというのは怨霊とは無縁であるどころか、非常に健気な女性で、しかも夫婦仲は非常に円満であったという。
それによれば、お岩という女性は幕府の御家人・田宮又左衛門の娘で、夫・田宮伊右衛門とは人もうらやむ仲のよい夫婦だった。しかし、家は大変貧しかったので、家計を支えるため商家に奉公に出た。お岩は日頃から田宮家の屋敷神を熱心に信仰していた。その甲斐あって、次第に家運は回復し、かつての繁栄を取り戻した。
寛永13年(1636)にお岩はなくなるが、お岩の信仰によって田宮家が復活したという話は評判となり、近隣の人々は田宮家の屋敷神を於岩稲荷と呼んで信仰した。
享保2年(1717)田宮家は屋敷神の隣に稲荷祠を建立した。参拝を求める人が増えたので、屋敷を開放して参拝を許可することになり、以来、於岩明神・大巌明神・四谷稲荷・左門町稲荷などと呼ばれて、信仰を集めた。
文政8年(1827)鶴屋南北は江戸の庶民の信仰を集めているお岩をモデルとし、さまざまな江戸の事件で脚色した歌舞伎『東海道四谷怪談』を執筆した。これが大当たりで、於岩稲荷の人気はますます高まったが、健気な女性であった於岩に怨霊というイメージが定着してしまった。
さらに、『東海道四谷怪談』に出演する役者は於岩稲荷に参拝していたのだが、そのうちに上演前に参拝しなければ、病気になったり事故に遭ったりするという話になり、祟りだという話にまでなった。しかし、これは『東海道四谷怪談』は暗い場所で演じる上に、大がかりなからくりなどが用いられるので、怪我が多く、それが祟りと結びつけられたのだろうという(ただし、子孫の田宮伊左衛門夫妻が怪談のモデルだという説もある)。
明治の初め、於岩稲荷田宮神社と改称した。明治12年(1879)、四谷左門町の火事で社殿が焼失したのをきっかけに、越前堀(現在の中央区新川)の田宮家の敷地内に遷座した。市川左団次から毎回四谷まで参拝に赴くのは大変なので、近くに移転してもらいたいという要望があったことにもよるという。これが現在、中央区新川にある於岩稲荷田宮神社で、こちらが本社になる。
昭和27年(1952)四谷の旧社地に飛地境内社として四谷の於岩稲荷田宮神社が再興された。
写真帖
メモ
田宮伊右衛門・お岩夫妻の子孫が代々の宮司を務めているとのことである。新川の社のほうが本社になるが人は常駐していないようで、四谷のほうにいらっしゃるようだ(平成17年時点)。なお、お岩さんのお墓がある長徳山妙行寺は明治40年(1907)西巣鴨に移転している。
於岩稲荷田宮神社の概要
名称 | 於岩稲荷田宮神社 |
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通称 | お岩稲荷 お岩さま |
旧称 | 於岩稲荷社 |
御祭神 | 豊受比賣大神〔とようけひめのおおかみ〕 田宮於岩命〔たみやおいわのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都新宿区左門町17番地 |
創建年代 | 創建年代 |
社格等 | (旧無格社)於岩稲荷田宮神社飛地境内社 |
例祭 | 3月22日 |
交通アクセス
□丸ノ内線「四谷三丁目駅」より徒歩8分
□JR「信濃町駅」より徒歩10分