仙台東照宮は、仙台藩二代藩主・伊達忠宗が三代将軍・徳川家光に願い出、伊達家の守護神として東照大権現を祀ったものである。慶安2年(1649)に普請を始め、承応3年(1654)に完成、江戸より御神像を迎えて盛大に遷座式を行った。例祭は仙台祭と称し、江戸時代末期まで領内最大の祭礼として盛大を極めた。本殿など5棟が国の重要文化財に指定されている。
正式名称 | 東照宮〔とうしょうぐう〕 |
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通称 | 仙台東照宮〔せんだい とうしょうぐう〕 |
御祭神 | 徳川家康 |
社格等 | 旧県社 |
鎮座地 | 仙台市青葉区東照宮1-6-1 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://sendai-toshogu.or.jp/ |
御朱印
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(1)平成17年拝受の御朱印。上の朱印は三つ葉葵に「参拝記念・東照宮・仙台市」、下は「東照宮之印」。
(2)平成28年拝受の御朱印。朱印は平成17年のものと同じ。
昔の御朱印
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(1)昭和10年(1935)頃の御朱印。上の朱印は現在のものと同じ「東照宮之印」。下の印は三つ葉葵に「仙臺・東照宮・參拝記念」で、デザインは基本的に現在のものと同じ。
御由緒
仙台東照宮は、徳川家康を御祭神とし、仙台七崎の一つ・玉手崎と呼ばれる段丘上に鎮座する。徳川家康は天正19年(1591)10月、葛西大崎一揆の仕置を終えて江戸に帰る途中、伊達政宗とともにこの地で宿陣したと伝えられる。
慶安2年(1649)5月、仙台藩2代藩主伊達忠宗は、東照大権現(徳川家康)を伊達家の守護神として祀るため、3代将軍徳川家光に東照宮勧請を願い出て許しを得た。そして同年8月、徳川家康ゆかりの当地に社殿の造営を開始した。
もともとこの地には天神社が祀られていたが、東照宮の勧請に伴い境内東側に遷座、さらに榴ヶ岡に遷された(現在の榴岡天満宮)。
富塚内蔵助重信・山口内記重如を造営奉行、梅村彦作之三を大工棟梁として本殿・唐門・透塀・幣拝殿・本地堂・御供所・手水舎・鐘楼・随身門・石鳥居・別当仙岳院・御旅宮などを造営、承応3年(1654)に完成した。
祭祀は別当・仙岳院(天台宗)が掌ることとなり、江戸山王(日枝神社)別当の最教院僧正晃海大和尚を迎えて開山とした。御神体は衣冠束帯姿の徳川家康公で、京の大仏師・左京法橋幸和の手になり、寛永寺最教院で開眼供養が営まれた。
承応3年3月6日、晃海僧正は御神体を奉安した神輿を捧持して江戸を出発、石川宗弘など150名の仙台藩士に警護されて同月13日に仙台に到着した。16・17日に藩主以下重臣が参列して厳かに遷座祭が執り行われ、19日には社頭で法楽の能が奉納された。
造営に携わった人足はのべ58万3675人、大工12万9967人。材木24,730本、銅地金21,321貫650匁、金箔152,565枚、総工費22,496両に及ぶ仙台藩の総力を挙げての大事業であった。
日光東照宮を意識した壮麗な建築であったが、権現造ではなく伊達政宗の廟所である瑞鳳殿と同じ様式である(本殿と拝殿が別棟で、本殿の周りに透塀を巡らし、正面に唐門を置く)。以来、伊達家の守護神として歴代藩主の厚い崇敬を受けた。
社領は360石。別当の眺海山康国寺仙岳院は一門格(仙台藩の寺院格式の最高位)17ヶ寺の筆頭寺院とされ、中尊寺の別当も兼ねていた。
明暦元年(1655)より毎年9月17日を例祭日に定め、城下18ヶ町に命じて、藩主在国の年には神輿渡御の先駆けとして山鉾を出させた。祭礼当日、藩主は衣冠束帯で参詣、厳かに祭祀を執り行った後、国分町の外人屋で神輿の渡御を見物した。神輿に供奉する山鉾は少ない年でも35、6台、多い年には70台に及んだという。これを「仙台祭」と称し、領内最大の祭礼として江戸時代末まで盛大に行われた。
明治の神仏分離により、境内にあった本地堂・鐘楼・真浄殿(歴代徳川将軍の位牌所)が取り除かれた。本殿以外の社殿の銅瓦や飾金具が剥ぎ取られるなど、一時は荒廃してしまったという。
しかし、氏子の尽力により境内が整備され、明治12年(1879)郷社に列格、例祭は徳川家康の命日である4月17日に改められた。大正4年(1915)には県社に昇格した。
昭和10年(1935)火災で幣拝殿・神饌所が全焼。拝殿内に掲げられていた狩野探幽の三十六歌仙の額も2面を残して焼失してしまった。現在の幣拝殿は昭和39年(1964)に元の姿で再建されたものである。
昭和28年(1953)本殿・透塀・唐門・石鳥居が国の重要文化財に指定。さらに昭和55年(1980)には随身門と石灯籠が追加指定された。
昭和52年(1977)から唐門・透塀の大修理が行われ、剥ぎ取られた飾金具や透塀の銅瓦が復元された。さらに昭和54年(1979)から昭和55年(1980)にかけて本殿の修理が行われ、創建当時の華麗な姿を取り戻した。
境内
参道入口より。右側の社号標には「縣社 東照宮」とある。
石鳥居。国の重要文化財。伊達忠宗の寄進で、備前国犬島産の花崗岩を用いている(忠宗の正室・振姫の実家は備前藩池田家)。笠石の反りが緩やかな美しい明神鳥居で、県下では最古のものである。因みに、県の有形文化財に指定されている手水盤も犬島産の花崗岩。
参道。両脇の石灯籠は国の重要文化財。伊達氏一門や重臣から寄進されたものである。創建当初は38基あったが、寛文事件(伊達騒動)の後、事件に関わった重臣のものが取り除かれ、その後追加されたものもあって、現在は37基となっている。
石灯籠。
随神門、国の重要文化財。三間一戸の楼門形式。透漆塗りで、唐様・和様折衷の重厚な建築である。現在は銅版葺きだが、当初は銅瓦葺きであったという。左右の随身は京の大仏師・左京法橋幸和の作で、一説には、左の随身は藤堂高虎63歳の姿、右の随身は本多忠勝43歳の姿を模したものともいわれる。
随神門の扁額「東照宮」。尭然法親王(京都の妙法院門跡で、寛永17年以降3度天台座主を務めた)の筆。
神楽堂。
石段の上に拝殿が見えてくる。
石段を上がったところに手水舎がある。手水舎としては宮城県内最古のもので、県の重要文化財に指定されている。
手水盤。石鳥居と同じく備前犬島産の花崗岩。
拝殿。昭和10年(1935)の火災の後、昭和34年(1959)元の姿で再建された。
拝殿。東照宮は一般的に本殿と拝殿を一体にした権現造が多いが、仙台東照宮の場合は本殿と拝殿を別棟とし、本殿の周りに透塀を巡らして正面に唐門を置く。伊達政宗の廟所である瑞鳳殿と同じ形式である。
拝殿の扁額「東照宮」
本殿と唐門、透塀。いずれも国の重要文化財。
唐門は銅瓦葺きの向唐門形式(門の正面と背面に唐破風を持つ)で、透漆塗り。扉には鳳凰や麒麟、獅子の彫刻を配し、天井と垂木の間、蟇股、扉の錦板には金箔を押している。飾金具や銅瓦は明治維新の混乱の際に持ち去られてしまったが、昭和期に修復されたという。
透塀は透漆塗り、銅瓦葺き。全長約79mで、本殿を取り囲んでいる。
本殿。国の重要文化財。桁行3間、梁間2間の銅瓦葺入母屋造。建物は内外とも欅材の木目が見える透漆塗りが施されている。木階は朱漆塗り、外部板壁は黒漆塗りで、随所に彫刻や鍍金金具を配した華麗な建築である。
メモ
JR仙山線・東照宮駅から西の通りに出ると、旧別当・仙岳院があり、そのすぐ北に東照宮の参道があって、大きな石の鳥居が見える。鳥居をくぐると両脇に石灯籠が並び、随身門への石段へと続く。随身門の先にも石段があり、その上に社殿がある。
拝殿の背後、唐門・透塀の周囲はフェンスで囲まれ、その手前から眺めるしかない。本殿も、透塀の上に見える上部を遠望するだけであるが、それでもその華麗な姿を覗うことができる。
初めて御朱印をいただいたのは平成17年、山寺に向かう途中、途中下車をして参拝した。しかし、あまり時間がなかったため慌ただしい参拝となり、ほとんど写真を撮っていなかったため、再度の参拝をしたいと考えていた。
2度目は平成28年、山形市内の神社と山寺を参拝して東京に戻る途中に参拝。この時は時間に余裕があったので、ゆっくりと境内や社殿を見ることができた。
仙台東照宮の概要
名称 | 東照宮 |
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通称 | 仙台東照宮 |
御祭神 | 徳川家康公〔とくがわいえやす こう〕 |
鎮座地 | 仙台市青葉区東照宮一丁目6番1号 |
創建年代 | 承応3年(1654) |
社格等 | 旧県社 |
例祭 | 4月17日 ※4月16日/宵祭り ※4月第3土・日曜日/神楽奉納 ※5年に一度の4月第3日曜日/神輿渡御 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月14日/どんど焼き 2月3日/節分祭・撒豆式 2月17日/祈年祭 6月30日/夏越の大祓式 11月23日/新嘗祭 12月31日/年越の大祓式 |
文化財 | 〈重文〉本殿(附厨子1基・棟札1枚)・唐門・透塀・随身門(附左右袖塀)・石鳥居(附石灯籠34基)〈県指定有形文化財〉手水舎(附花崗岩造水盤) |
交通アクセス
□JR仙山線「東照宮駅」より徒歩3分
□JR東北本線・東北新幹線「仙台駅」よりバス
■市営バス東仙台営業所前行き「宮町五丁目・東照宮駅入口」下車徒歩3分
更新履歴
2017.09.12.公開
2024.07.22.更新、昔の御朱印を追加。