名称 | 補陀洛山 清浄光院 志度寺 |
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御本尊 | 十一面観世音菩薩 |
所在地 | 香川県さぬき市志度1102 [Mapion|googlemap] |
【本尊真言】
おん まか きゃろにきゃ そわか
【御詠歌】
いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りの声を耳に触れつつ
【略縁起】
寺伝によれば推古天皇33年(625)凡薗子尼が霊木から彫った十一面観音を本尊として開創したとされる。天武天皇10年(681)藤原不比等が妻の海女のために墓を建て、堂宇を建立して「死度道場」と名付けたという。また、持統天皇7年(693)には、その子・藤原房前が行基とともに訪れて伽藍を拡張し、母の供養のために千基の石塔を建立したと伝えられる。この海女にまつわる「玉取伝説」は謡曲「海士」などで広く知られている。
志度寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は十一面観音の種字「キャ」に「十一面観音」。中央の宝印は蓮台上の宝珠に種字「キャ」。右上の印は「四国八十六番」、左下は「志度寺印」。
(2)平成19年拝受の納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。版木押しで「四国第八十六霊刹」「本尊十一面観音」「讃州 補陀落山 志度寺」。上の朱印は「補陀落山」、左下は「執事」。
(2)天保12年(1841)の納経。版木・朱印ともに天保11年のものと同じ。ただし朱印の位置が逆になっている。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。版木押しで「四国第八十六霊刹」「本尊十一面観世音」「讃州 補陀落山 志度寺」。中央の宝印は「清浄光院」と思われる。上の印は「四国八十六番」、左下は「執事」であろう。
志度寺について
山号 | 補陀洛山(ふだらくさん) |
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寺号 | 志度寺(しどじ) |
院号 | 清浄光院(しょうじょうこういん) |
御本尊 | 十一面観世音菩薩 |
所在地 | 香川県さぬき市志度1102番地 |
創建年代 | 推古天皇33年(625) |
開山 | 凡薗子尼 |
宗派等 | 真言宗善通寺派 |
文化財 | 〈重文〉本堂(附:棟札2枚)・仁王門 絹本著色十一面観音像 絹本著色志度寺縁起(6幅・附紙本墨書志度寺縁起等付属文書9巻) 木造十一面観音両脇士立像 〈県有形文化財〉閻魔堂・奪衣婆堂 木造如来形坐像 木造金剛力士立像 |
覚え書き
東讃を代表する伝説と文化財の寺。殊に海女の玉取伝説は謡曲ともなり、彫刻などの題材として各地の寺社や山車・太鼓台などに見ることができる。
寺伝によれば、推古天皇33年(625)凡薗子〔おおしのそのこ〕尼が志度浦に流れ着いた霊木で観世音菩薩を彫りたいと念じていると、観世音菩薩の化身が現れて十一面観音像を刻んだ。さらに閻魔大王の化身が一夜にしてお堂を建てたので、そこに本尊として安置したのが始まりとされる。
また、縁起には海女の玉取の話が語られる。
天武天皇の御代(673~86)藤原不比等は父・鎌足の供養のため、興福寺を建立しようとした。この時、唐の皇帝に嫁いでいた不比等の妹は、三種の宝物を贈ってきた。二つは無事に届いたが、「面向不背の珠(どの方向から見ても釈迦三尊の姿が正面から見え、背を向けない宝珠)」だけは志度浦の沖で龍神に奪われた。
不比等は宝珠を取り返すため志度浦に行った。そこで一人の海女と結ばれ、子供(後の藤原房前〔ふじわらのふささき〕)をもうけた。その後、不比等から事情を聞いた海女は、瀬戸の海に潜り、龍宮から宝珠を取り戻した。しかし龍神に悟られたため、自らの乳房を切り裂いて龍神の嫌う血を流し、宝珠を乳房に隠して海辺へ戻ったが、ついに息を引き取った。不比等は薗子尼の建てた堂の境内に海女の墓を建て、伽藍を建立して「死度道場」と名付けた。
持統天皇7年(693)藤原房前は行基を伴って志度浦を訪れて伽藍を拡張し、母である海女の供養のために千基の石塔を建立したという。その一部といわれる石塔約20基が今も残り、海女の墓と伝えられている。
天正年間(1573~92)長宗我部の兵火にかかるが、その後、領主の生駒氏・松平氏によって再建された。江戸時代の建造物ではあるが、本堂・仁王門が国の重要文化財に、閻魔堂・奪衣婆堂などが県の文化財に指定されている。
境内の曲水式庭園は細川氏によって築かれた室町時代の庭園。お辻の井戸は、歌舞伎「花上野誉碑」で知られる田宮坊太郎の乳母・お辻が、仇討ち成就を願って水垢離をしたと伝わる井戸である。
志度寺の奥の院は、薗子尼の屋敷跡と伝えられる地蔵寺である。