名称 | 橋池山 摩尼院 立江寺 |
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御本尊 | 延命地蔵菩薩 |
所在地 | 徳島県小松島市立江町13 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.tatsueji.com/ |
【本尊真言】
おん かかかび さんまえい そわか
【御詠歌】
いつかさて 西のすまいのわが立江 弘誓の舟に乗りていたらむ
【略縁起】
古くから「子安の地蔵尊」「立江の地蔵さん」として広く信仰を集める。寺伝によれば、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が光明皇后の安産を祈願して1寸8分(約5.5cm)の金の地蔵菩薩の像を刻み、これを本尊として開創したとされる。弘仁6年(815)弘法大師が当時を訪れてこの像を拝したとき、小さな像では紛失の恐れがあるとして等身大の地蔵菩薩像を刻み、金の御本尊を胎内に納めたという。
立江寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は地蔵菩薩の種字「カ」に「地蔵尊」。中央の宝印は蓮台上の円に地蔵菩薩の種字「カ」。右上の朱印は「四国第十九番」、左下は「立江寺」。
(2)平成18年に拝受した納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納」「本尊地蔵大菩薩」「アハ(阿波)立江寺」。「菩薩」は草かんむり二つ重ねた略字、いわゆる「ササ菩薩」を使っている。中央に宝印はない。右上の印は「第十九番」、左下は「橋池山」。
(2)天保12年(1841)の納経。揮毫は「奉納経」「本尊地蔵大士」「アハ(阿波)」「立江寺」。朱印は天保11年のものと同じで、中央の宝印はない。
明治時代の納経
(1)明治38年の納経。揮毫は「奉納」「南無地蔵大士」「立江寺」。朱印は天保年間のものと同じで右上に「第十九番」、左下に「橋池山」。中央の宝印はない。
立江寺について
山号 | 橋池山(きょうちざん) |
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寺号 | 立江寺(たつえじ) |
院号 | 摩尼院(まにいん) |
御本尊 | 延命地蔵菩薩 |
所在地 | 徳島県小松島市立江町字若松13番地 |
創建年代 | 天平19年(747) |
開山 | 行基菩薩 |
宗派等 | 高野山真言宗 別格本山 |
文化財 | 〈重文〉絹本著色釈迦三尊像 |
備考 | 阿波七福神(毘沙門天) |
覚え書き
住宅地の中ではあるが、壮大な山門、本堂、多宝塔など、風格を備えた伽藍である。
聖武天皇の勅願により、光明皇后の安産祈願のため、行基菩薩が一寸八分(約6センチ)の金の地蔵菩薩を刻んで安置したことに始まるという。
弘仁6年(815)弘法大師が巡錫されたおり、行基菩薩による像が小さいので紛失の畏れがあると、自ら一刀三礼して6尺(約1.8m)の地蔵菩薩像を刻み、元の本尊を胎内に納めた。安産・子育ての地蔵菩薩として信仰を集める。
元は今から400メートルほど西にあり、七堂伽藍の大寺院であったというが、天正年間(1573~92)長宗我部の兵火で焼失した。その後、徳島藩主・蜂須賀家政により現在地に再建された。さらに昭和49年(1974)にも火災があり、現在の本堂は同52年(1977)の再建である。なお、御本尊は両度の火災にも焼失を免れ、無事であった。
また、ここは四国霊場中に四つある関所寺の一つとしても知られる。邪悪な心を持つ遍路は罰を受けるとされる。
享和3年(1803)石見国のお京という女性遍路が立江寺の本尊にお参りしようとすると、突然、髪が鰐口の紐に巻き付き、離れなくなった。この女性は、郷里で不義密通をした上、その相手とともに夫を殺害し、讃岐丸亀に逃れて心中しようとしたが果たすことができず、二人で遍路をしていたのであった。
お京が立江寺の住職にこのような内容を懺悔すると、髪の毛は頭皮とともに剥がれた。そこで二人は改心し、寺の近くに庵を結んで、地蔵菩薩を念じながら生涯を終えたという。お京の髪は、今も境内にある黒髪堂に納められている。
立江寺の奥の院とされるのは阿南市羽ノ浦町の取星寺と勝浦郡勝浦町の星谷寺(星の岩屋)。また、旧寺地にある奥谷山清水寺も奥の院とされる。
参考:関所寺とは
関所寺とは、悪事を犯した遍路や、邪悪な心を持つ遍路は罰を受けるという寺である。いわば信仰的な意味での関所で、実際に関所が置かれるというわけではない。
阿波・土佐・伊予・讃岐にそれぞれ一ヶ所ずつある。
阿波:19番 橋池山 立江寺
土佐:27番 竹林山 神峯寺
伊予:65番 由霊山 三角寺
讃岐:66番 巨鼇山 雲辺寺
雲辺寺は阿波と讃岐の国境にあり、所在地としては徳島県になるが、涅槃の道場・讃岐の霊場に数えられる。