筑土八幡神社は牛込東部の鎮守。社伝によれば、嵯峨天皇の御代(809~823)八幡神を熱心に信仰する老翁が夢告を受け、松の木に注連縄を張って祀ったことを起源とする。その後、この話を聞いた伝教大師が自ら神像を彫り、祠に祀った。この時、筑紫の宇佐の宮土を礎としたので「筑土」と称するようになったと伝えられる。
正式名称 | 八幡神社〔はちまんじんじゃ〕 |
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通称 | 筑土八幡神社〔つくど はちまんじんじゃ〕 |
御祭神 | 応神天皇 〈配祀〉神功皇后 仲哀天皇 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都新宿区筑土八幡町2-1 [Mapion|googlemap] |
御朱印
平成17年に拝受した御朱印。朱印・墨書ともに「筑土八幡神社」。
御由緒
筑土八幡神社の社伝によれば、嵯峨天皇の御代、牛込の里に八幡神を熱心に信仰する翁が「われ、何時が信心に感じ跡を垂れん」との夢告を受けた。翌日、松の木の上に細長い旗のような雲が棚引き、その中から白鳩が現れて松の梢にとまるという奇瑞を得た。翁は村人にこのことを告げて、松の木に注連縄を張って祀った。
その後、伝教大師がこの地を巡錫した際、この話を聞いて神像を彫り、祠に祀った。その時、筑紫の宇佐の宮土を取り寄せて礎としたことから「筑土八幡」と称したという。
文明年間(1469~87)江戸城にあった上杉朝興は当地の氏神、江戸の鎮護として当社を崇めた。以来、牛込東部の産土神とされる。なお、『牛込区史』によれば、当地は上杉氏の砦であったとの伝承もあるとのこと。
明治5年(1972)村社に列格。昭和20年(1945)戦災により焼失。同38年(1963)現在の社殿が再建された。
境内には、筑土八幡町に住んでいた音楽教育家・作曲家の田村虎蔵の顕彰碑がある。田村は鳥取県の出身で、言文一致唱歌を提唱し、「きんたろう」「はなさかじじい」「大こくさま」など多くの唱歌を作曲した。碑には「きんたろう」の冒頭の音符付きの歌詞が刻まれている。また、同じく境内にある庚申塔は、桃を持った雌雄二匹の猿という珍しい図柄のもので、区の有形民俗文化財に指定されている。
因みに、元和2年(1616)江戸城ニの丸の普請に伴って築土神社が当社の隣地に遷座、以来三百年余の間、両社は隣り合って鎮座していた。しかし、戦災で焼失したのを機に、昭和21年(1946)築土神社は千代田区の氏子地域内に還座した。
補足
宇佐八幡が鎮座するのは豊前であり、筑紫(筑前・筑後)ではなく、「筑紫の宇佐の宮土」とするのは牽強付会の説のように思える。古事記では九州を筑紫の嶋と呼ぶが、それを以て筑紫の宇佐というわけではないだろう。元和2年(1616)筑土明神(現在の築土神社)が隣に移ってきたことにより、筑土の名を称するようになったのかとも考えたが(創建当初は津久戸村にあって津久戸明神と称したと伝えられる)、築土神社のサイトによれば、同社が「築土」「筑土」を称するようになったのは筑土八幡宮の隣に遷座して以降であり、この地が築土山と称されていたことに因むのであろうという。築土神社が室町時代以前に津久戸明神と称していたことは間違いないようなのだが、これが筑土の名の由来というわけではないようだ。むしろ『牛込区史』にある、当地が元関東管領上杉氏の砦だったという伝承に関わるのかも知れない。
写真帖
メモ
飯田橋にほど近い、大久保通りの筑土八幡交差点に参道の石段がある。隣はカトリック御受難修道会のみことばの家、さらにその隣は朝鮮新報社という、なんとなく不思議な一角である。
筑土八幡神社の概要
名称 | 八幡神社 |
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通称 | 筑土八幡神社 |
旧称 | 筑土八幡宮 |
御祭神 | 応神天皇〔おうじんてんのう〕 〈配祀〉 神功皇后〔じんぐうこうごう〕 仲哀天皇〔ちゅうあいてんのう〕 |
鎮座地 | 東京都新宿区筑土八幡町2番1号 |
創建年代 | 嵯峨天皇の御代(809~823) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 9月15日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月節分/節分祭 6月30日/大祓 12月31日/大祓 |
交通アクセス
□JR・東京メトロ各線・都営大江戸線「飯田橋駅」より徒歩約5分
□東京メトロ東西線「神楽坂駅」より徒歩約7分