上野東照宮は、徳川家康の遺言により、寛永4年(1627)藤堂高虎と天海僧正が寛永寺境内に勧請したことに始まる。慶安4年(1651)徳川家光により現在の金色殿とも称される豪華な社殿が造営された。この社殿は上野戦争や関東大震災、第二次大戦の戦火も免れ、国の重要文化財に指定されている。
正式名称 | 東照宮〔とうしょうぐう〕 |
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通称 | 上野東照宮〔うえの とうしょうぐう〕 |
御祭神 | 徳川家康公 徳川吉宗公 徳川慶喜公 |
社格等 | 旧府社 |
鎮座地 | 東京都台東区上野公園9-88 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.uenotoshogu.com/ |
御朱印
(1)平成17年に拝受した書き置きの御朱印。「東照宮」の横の文字は「大相国一品徳蓮社 栄誉道和大居士 徳川家康公鎮魂」。中央の印は「天海僧正 東照神君 藤堂高虎」、右上は「上野栄誉権現」、左下は「上野東照宮社務所」。
(2)平成26年拝受の御朱印。中央・左下の印は平成17年のものと同じ。
(3)平成27年に拝受した徳川家康公四百年式年記念・東武鉄道御朱印ラリー限定の御朱印。中央の印は「平成27年 上野東照宮 家康公奉斎四百年記念」、左下は「上野東照宮社務所」。
(4)令和3年に拝受した境内社・栄誉権現社の御朱印。栄誉権現の御姿に「栄誉権現社/上野東照宮」。
昔の御朱印
大正・昭和の御朱印
(5)大正10年頃の御朱印。上の印は「上野東照宮」、左下は「上野東照宮社務所」。
(6)昭和8年頃の御朱印。大正10年のものと同じ印と、右下に「東京上野公園鎮座」。
明治の御朱印
(7)明治17年の御朱印。揮毫は「東京府社/上野公園鎮座/東照宮/社務所」。中央の朱印は「東京府社」、左下は「上野神官之印」。
御由緒
上野東照宮は、寛永寺境内に祀られた東照宮である。
元和2年(1616)家康の見舞いのために駿府城を訪れた藤堂高虎と天海僧上は、病床の家康から三人一処に末永く鎮まる場所を造ってほしいと遺言された。これに従い、元和9年(1623)上野忍ヶ丘(現在の上野公園)にあった藤堂家の屋敷内に家康を祀る宮祠を建立したのが起源であるという。
その後、寛永寺の造営に伴い、藤堂家の屋敷も上地となった。寛永4年(1627)藤堂高虎と天海僧上は寛永寺境内に東照社を勧請、尾張の徳川義直・紀伊の徳川頼宣・水戸の徳川頼房らの協力により完成した。正保3年(1646)には宮号宣下により東照宮と改められた。
慶安4年(1651)神君家康を敬慕する3代将軍家光によって、金色殿とも称される現在の豪華な社殿が造営された。4月16日に正遷宮が行われ、翌16日には法華懺法講が厳修された。因みに家光はこの直後の同月20日に薨去している。
この社殿は慶応4年(1868)の上野戦争の戦火を免れて明治44年(1611)旧国宝に指定され、現在は重要文化財となっている。境内の石灯籠・青銅灯籠も慶安の造営の際に諸大名が寄進したもので、このうち48基の青銅燈籠も重要文化財に指定されている。
江戸時代の別当は寛永寺の子院・寒松院(現・上野公園15-11)であった。寒松院は藤堂高虎によって建立され、開基は天海僧正の高弟・弁海、院号は高虎の戒名に因む。社領は東叡山領5,600石の内1,335石であった。
明治の神仏分離により別当・社僧を廃し、祭儀も仏式から神式に改められた。明治6年(1873)府社に列格。
写真帖
メモ
平成17年に初めて参拝した時は、社殿の傷みが激しく、これで大丈夫なのだろうかと思うような状態だった。その後、平成21年(2009)から社殿の修復工事が行われ同25年(2013)完了、金色殿とも呼ばれたという往事の豪華な姿が蘇った。26年初めから一般の拝観が行われるようになったので、1月末に参拝した。
上野東照宮の概要
名称 | 東照宮 |
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通称 | 上野東照宮 |
御祭神 | 徳川家康公〔とくがわ いえやすこう〕 徳川吉宗公〔とくがわ よしむねこう〕 徳川慶喜公〔とくがわ よしのぶこう〕 |
鎮座地 | 東京都台東区上野公園9番88号 |
創建年代 | 寛永4年(1627) |
社格等 | 旧府社 |
例祭 | 4月17日 |
文化財 | 〈重文〉本殿・幣殿・拝殿・唐門・透塀・青銅燈籠 |
交通アクセス
□JR山手線・京浜東北線・東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」より徒歩約7分
□東京メトロ千代田線「根津駅」より徒歩約7分
□都営大江戸線「上野御徒町駅」より徒歩約12分