名称 | 医王山 遍照光院 大窪寺 |
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御本尊 | 薬師如来 |
所在地 | 香川県さぬき市多和兼割96 [Mapion|googlemap] |
【本尊真言】
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
【御詠歌】
南無薬師諸病なかれと願いつつ 詣れる人は大窪の寺
【略縁起】
四国八十八ヶ所の結願所。寺伝によれば、元正天皇の御代(714~24)行基菩薩が開創したとされる。弘仁7年(816)弘法大師が胎蔵ヶ峰で虚空蔵求聞持法を修した。そして薬師如来の像を刻んで本尊とし、恵果阿闍梨から授かった三国伝来の錫杖を納めたという。女人の参詣を許したことから「女人高野」と呼ばれて繁栄したが、天正の兵火で焼失した。江戸時代には歴代高松藩主の庇護を受けて伽藍が整えられた。しかし、この伽藍も明治33年(1900)の火災で焼失し、現在の建物はその後の再建である。
大窪寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は「薬師如来」。中央の宝印は蓮華座の上に薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「四国八十八番」、左下は「結願所」。
(2)平成19年拝受の納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納経」「本尊薬師如来」「東讃州」「大窪寺」。中央の宝印は蓮華座上の火炎宝珠に「奥院 胎蔵峯寺 明伽井」、本尊ではなく奥之院に関わる内容である。右上の印は「四国八十八番」、左下は「遍照光院」。
(2)天保12年(1841)の納経。版木押しで「第八十八番奉納経」「本堂薬師如来」「讃岐国大窪寺」。朱印は天保11年のものと同じ。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。版木押しで「結願所」「金堂医王尊」(医王尊は薬師如来の別名)「讃陽 大窪寺」。中央の宝印は蓮華座上の火炎宝珠に薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「四国第八十八番」、左下は「遍照光院」。
大窪寺について
山号 | 医王山(いおうざん) |
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寺号 | 大窪寺(おおくぼじ) |
院号 | 遍照光院(へんじょうこういん) |
御本尊 | 薬師如来 |
所在地 | 香川県さぬき市多和兼割96番地 |
創建年代 | 養老元年(717) |
開山 | 行基菩薩 |
宗派等 | 真言宗大覚寺派 |
文化財 | 〈県有形文化財〉木造薬師如来坐像 鉄錫杖 |
覚え書き
長かった四国遍路もこの寺で結願となる。
古くは現在のように霊山寺が一番、大窪寺が八十八番と決まっていたわけではなかったようだ。寂本の『四国徧礼霊場記』では「八十八番の次第、いづれの世、誰の人か定めたまへる。定かならず」として、善通寺より始めている。とはいえ、これに先立つ澄禅の『四国辺路日記』には「大師は阿波の北分十里十ヶ寺霊山寺を最初にして阿波土佐伊豫讃岐と順に御修行なり」とあり、すでに霊山寺を打ち始めとする観念が成立して久しいことを伺わせる(当然、大窪寺が結願であろう)。
寺伝によれば、元正天皇の御代(714~24)行基菩薩が開創したと伝えられる。弘仁7年(816)弘法大師が留錫し、現在奥之院とされる胎蔵ヶ峰で虚空蔵求聞持法を修した。そして、伽藍を建立して自ら刻んだ薬師如来を本尊とし、恵果阿闍梨より授かった三国伝来の錫杖を納めたという。さらに大師の高弟である真済僧正が100町四方を結界とし、高野山に倣って金剛・胎蔵両界を配置したと伝えられる。
女人禁制の高野山に対し、女人の参詣を許したことから「女人高野」と呼ばれ、最盛期には10町四方の境内に堂宇百余を数えたという。しかし天正年間(1573~92)の兵火で一院を残して焼失した。
江戸時代には歴代高松藩主の帰依を受け、寺領の寄進や堂宇の造営が行われた。しかし、明治33年(1900)の火災で再び焼失、現在の伽藍はその後の再建である。
本尊の薬師如来は薬壺ではなく法螺貝を持つことから「ほら薬師」の名で知られる。ただし現在は法螺貝の傷みが激しいことから、水晶でできた法螺貝に差し替えられているとのことである。
新しく建立された大師堂はかなり大きなもので、地下には八十八ヶ所のお砂踏みが設けられている。また、大師堂脇の宝杖堂には、結願したお遍路さんが納めた金剛杖が納められている。納められた杖は柴燈護摩によって供養されるとのことである。
大窪寺は分水嶺の南にあり、門前の道を進むと10番切幡寺の近くに出る。大窪寺を打ち終わったお遍路さんは十里十ヶ寺を逆に進んで霊山寺を参拝し、高野山奥の院へと向かう。
大窪寺の奥の院は、弘法大師が求聞持法を修したという胎蔵峰寺である。また、さぬき市大川町の西教寺は八十八番の前札所とされる。