日野宮神社は、日野本郷の小名・四ッ谷(現・日野市栄町)に鎮座し、古くは日野宮(日之宮)権現社と称した。伝承によれば、日奉宗頼が武蔵野国司として赴任した。任終えた後、当地に土着し、その孫・日奉宗忠が武蔵七党の一つである西党の始祖となった。その子孫が祖神・天御中主神と高魂尊、先祖の日奉宗頼・宗忠を祀り、日之宮権現と称した。日野の地名は当社に由来するという説がある。
正式名称 | 日野宮神社〔ひのみやじんじゃ〕 |
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旧称 | 日野宮(日之宮)権現 四谷神社 |
御祭神 | 天御中主尊 〈配祀〉高魂尊 日奉宗頼 日奉宗忠 |
社格等 | 旧無格社 |
鎮座地 | 東京都日野市栄町2-27-19 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1) 平成29年拝受の御朱印。中央の朱印は「惟神」で、以前、日野八坂神社の御朱印で使われていたものと思われる。左下の印は「宮司之印」。揮毫は「日野宮神社」。
(2)令和4年拝受の御朱印。朱印・揮毫ともに(1)と同じ。
※御朱印は本務社の八坂神社にていただける。
日野宮神社について
御祭神
〈主祭神〉
■天御中主尊
〈配祀〉
■高魂尊
■日奉宗頼
■日奉宗忠
日奉宗頼・日奉宗忠は西党日奉氏の始祖、天御中主尊・高魂尊はその祖神とされる。
『新撰姓氏録』には、日奉連について「高魂命之後也」とある。
『日野市史 通史編』(1994、日野市史編さん委員会)によれば、多くの日奉氏系図は「天御中主尊-天八下尊-天三降尊-天八百別尊-八百万魂尊-天降別尊-高魂命」という系譜が冒頭に置かれ、高魂命〔たかみむすびのみこと〕を日奉氏の祖神としているという。
日奉宗頼は藤原道頼あるいは藤原宗頼の子とする伝承があるが、『尊卑分脈』にその名は見えず、創作であろうと考えられている。
鹿児島県の甑島に伝わっていた「日奉氏小川系図」(日奉一族の小川太郎季能が承久の乱の功績で甑島の地頭職を与えられ、現地に土着した子孫によって伝えられた系図)は日奉宗頼を藤原道頼の子で武蔵国に流罪になった人物とする(※この系図は多くの日奉氏系図と違って冒頭に藤原鎌足を置き、祖神を天児屋根命としている)。
これについて『日野市史 通史編』は、藤原(日奉)宗頼は父・道頼の兄弟である藤原伊周・隆家が起こした長徳の変に連座して武蔵国に配流され、国府に近い当地で古代豪族の流れを汲む日奉氏の女性と結婚し、父系で藤原氏、女系で日奉氏という一族が成立したのだろうという説を提示している。
『新編武蔵風土記稿』は日奉宗頼を「日野宗頼」とし、「その先は天御中主尊よりいで、姓は日奉なり。子孫当国に繁衍し、宗頼を追慕して日ノ宮とはいひしなり」と記す。
日奉宗頼の子が宗親、その子が宗忠である。その子孫は総領家の西氏を中心として多摩川及び支流の浅川・秋川流域に広がり、それぞれ土着した地名を苗字とした。一族には高幡・上田・田口・平山・土淵・田村(日野市)・立河(立川市)・小河・二宮・雨馬(あきる野市)・平井(日の出町)・由井・河口(八王子市)・狛江(狛江市)・細山・稲毛(川崎市)などの各氏があり、特に一ノ谷の合戦で熊谷次郎直実と先陣争いをした平山季重は名高い。
御神体について、『日野市史 通史編』は南北朝時代のものとされる「十一面観音菩薩像」とするが、『日野町誌』(1995)には「虚空蔵菩薩」だとする。
なお、明治12年(1879)の神社明細帳は御祭神を天照大神としている。旧称の「日之宮」によるのであろうか。
由緒
日野宮神社は武蔵七党の一つである西党日奉氏がその祖を祀り、日野宮権現と称したことに始まると伝えられる(「日宮」「日之宮」「日ノ宮」などと書かれることもある)。「日野宮」の名は日野の地名起源説の一つである。
伝承によれば、西党の祖・日奉宗頼は武蔵野国司として赴任し、任期を終えた後も都には戻らず、当地に土着した。また、一説には故あって武蔵国に配流されたともいう。宗頼の孫の日奉宗忠が西党の始祖となり、その子孫は多摩川及び支流の浅川・秋川流域に広がった。
日野宮神社の創建に関しては、日奉氏がその祖である宗頼・宗忠を祀ったとも、日奉宗頼が祖神である天御中主尊・高魂尊を祀り、子孫が宗頼・宗忠を合祀したともされる。
日奉氏の居館は日野宮権現のあたりにあったとも、その西の東光寺のあたりにあったともいわれる。隣接する栄町遺跡からは縄文時代から中世にいたる遺物や遺構が見つかっている。長きにわたって現在の栄町付近が日奉氏の支配地の中心であり、中世には日野宮権現が日野本郷の鎮守であったともいう。
江戸時代には真言宗の日輪山薬王寺が別当であった。『新編武蔵風土記稿』には「薬王寺領の内小名四ッ谷にあり、社は一間(約1.8m)四方にて、二間(約3.6m)四方の上屋あり、社地すべて樹木しげりて、最寂寥たるさま古社と見えたり」とある。
明治2年(1869)神仏分離により日野八坂神社の兼務社となる。
また、この頃、地名に因んで「四谷神社」と改称した。明治12年(1879)の神社明細帳では「四ッ谷神社」となっているが、明治32年(1899)の「南多摩郡神社調」や昭和22年(1947)の神社登記嘱託書では「四谷神社」となっている。なお、昭和30年(1955)の『日野町誌』には日野宮神社とあるので、この頃までに再度改称したようだ。
※なお、神社明細帳の所在地は明治41年(1908)に「日野宿字四ッ谷」から「日野町字上屋敷」に訂正されている。
昭和60年(1985)現在の拝殿が造営された。
阿弥陀如来像と虚空蔵菩薩像
日野宮神社の拝殿には阿弥陀如来像2体と虚空蔵菩薩像1体が奉安されている。これらの仏像は、もともと宝暦年間(1751~64)に創建された阿弥陀堂に祀られていた。昭和36年(1961)建て替えられて自治会館となったが、3体の仏像はその後も自治会館正面に祀られていた。
しかし平成5年(1993)自治会館の土地が所有者に返還され、自治会館も取り壊されることになったため、日野宮神社拝殿に祀られることとなった。
このうち、阿弥陀如来立像は昭和39年(1964)に修理した際に見つかった胎内文書から、室町時代の永正14年(1517)に造立されたものであることがわかった。現在、市の指定文化財となっている。
また虚空蔵菩薩像は江戸時代のものだが、日野宮神社の本地仏とされる。四谷地区にはウナギを食べないという禁忌習俗があるが、これはウナギが虚空蔵菩薩のお使いで、この像の天衣(肩から垂らした長い布)がウナギに似ているからとも、昔、多摩川の増水で堤防が決壊しそうになったとき、虚空蔵菩薩の使いのウナギが堤防の穴に入り込み、穴を塞いで洪水から村を守ったことに感謝するためとも伝えられる。
境内風景
社頭風景。住宅地の中に石の鳥居があり、その先に参道が続く。
境内社。左から秋葉神社・阿夫利神社・榛名神社・御嶽神社・中野原稲荷の五社合殿。
境内の一角に集められた石造物。手水盤・庚申塔・馬頭観音や石橋碑などがある。
「日野宮大権現」の石碑。石灯籠の竿石のようにも思われる。一対になっており、こちらは左側のもの。建立年は不詳だが、「多麻郡日野四ツ谷村」とある。
庚申塔。右は元禄14年(1701)、左は寛保元年(1741)のもの。
朱と白の対比が目に鮮やかな拝殿。昭和60年(1985)の造営。正面の提灯には1張りに1文字ずつ「日野宮神社」の文字が。
正面の扉に貼られた本地仏・虚空蔵菩薩の説明。ウナギを食べないという地元の言い伝えや毎年元旦の「初詣灯ろう」が紹介されている。
本殿。
メモ
JR日野駅から北西に徒歩10分余り、多摩川にほど近い住宅地に鎮座する。
明治12年(1879)の神社明細帳を見ると「社殿 縦二間半 横二間」「信徒 三拾五人」とあり、わずかな戸数の集落で維持するひなびた農村部の小さな社だったようだが、今は周囲を住宅や都営アパートに囲まれ、かつての姿を伺うことはできない。
とはいえ境内はきれいに整備され、掃除も行き届いているようで、地元の人々から大切に守られていることが感じられる。
日野宮神社の概要
名称 | 日野宮神社 |
---|---|
旧称 | 日野宮権現(日之宮権現・日宮権現) 四谷神社 |
御祭神 | 天御中主尊〔あめのみなかぬしのみこと〕 〈配祀〉 高魂命〔たかみむすびのみこと〕 日奉宗頼〔ひまつり むねより〕 日奉宗忠〔ひまつり むねただ〕 |
鎮座地 | 東京都日野市栄町二丁目27番19号 |
創建年代 | 不詳(平安時代後期?) |
社格等 | 旧無格社 |
例祭 | 9月第3土・日曜日 |
神事・行事 | 4月第2日曜日/祈年祭 ※『平成「祭」データ』による |
交通アクセス
□JR中央線「日野駅」より徒歩約12分。
参考資料
・『神社明細帳・9・南多摩』(東京都公文書館)
・『平成「祭」データ』(神社本庁教学研究所研究室)
・『日野市史 通史編』(日野市史編さん委員会)
・『日野市史 民俗編』(日野市史編さん委員会)
・『日野町誌』(日野町)
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