第63番 密教山 吉祥寺

63番吉祥寺

名称 密教山 胎蔵院 吉祥寺
御本尊 毘沙聞天
所在地 愛媛県西条市氷見乙1048 [Mapion|googlemap]

【本尊真言】
おん べいしらまんだや そわか

【御詠歌】
身の中の悪しき非法を打ちすてて みな吉祥を望み祈れよ

【略縁起】
弘法大師が当地を巡っている時、坂元山で不思議な光を放っている桧を見つけた。その桧で毘沙聞天と吉祥天、善膩師童子の像を刻み、衆生の貧苦を救うために一寺を建立したことに始まると伝えられる。元は21坊を擁する大伽藍を誇ったが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の兵火によって焼失し、末寺の檜木寺と合併して現在地に再興された。御本尊は「米持大権現」と呼ばれ、古くから農家の信仰を集める。

目次

吉祥寺の納経(御朱印)

  • 63番吉祥寺の納経

    (1)

  • 63番吉祥寺の納経

    (2)

(1)平成元年拝受の納経。揮毫は毘沙門天の種字「ベイ」に「毘沙聞天」。中央の宝印は火炎宝珠に種字「ベイ」。右上の印は「六十三番」、左下は「四国第六拾三番伊豫吉祥寺」。

(2)平成18年拝受の納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。

江戸時代の納経

  • 天保11年の納経

    (1)

  • 天保12年の納経

    (2)

(1)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納経」「六十三番」「本尊多聞天王」「与州密教山」「吉祥密寺」。中央上の宝印は勅願所であることを示す十六八重菊の御紋。左下の印は「密教胎蔵」。

(2)天保12年(1841)の納経。版木押しで「奉納経」「本尊毘沙聞天王」「与州密教山」「吉祥寺」。朱印は天保11年のものと同じ。

明治時代の納経

  • 明治38年の納経

    (1)

(1)明治38年(1905)の納経。版木押しで「六十三番霊刹」「高祖御作 本尊毘沙門天」「与州密教山」「吉祥寺」。中央の宝印は火炎宝珠に毘沙門天の種字「ベイ」。右上の印は「六十三番」、左下は「吉祥寺」。

吉祥寺について

山号 密教山(みっきょうざん)
寺号 吉祥寺(きちじょうじ)
院号 胎蔵院(たいぞういん)
御本尊 毘沙聞天
所在地 愛媛県西条市氷見乙1048番地
創建年代 弘仁年間(810~24)
開山 弘法大師
宗派等 真言宗東寺派

覚え書き

四国霊場中で唯一、毘沙聞天を本尊とする。一般的には「毘沙門天」と書くが、当寺では「毘沙聞天」とする。
寺伝によれば、弘法大師が当地を巡錫した折、坂元山で光を放っている桧を見つけた。人々の貧苦を救うため、この桧から一刀三礼して毘沙聞天と吉祥天、善膩師童子を刻み、一寺を建立して安置したことに始まるという。古来、「米持ち大権現」と呼ばれ、農家の信仰が篤いとということである。
現在は国道脇の狭い境内だが、かつて南東約1.5kmの坂元山にあり、21坊を擁する大伽藍を誇った(そもそも坂元という地名が、吉祥寺の坂の麓にあったことに由来する)。しかし天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐で、小早川隆景の軍勢の兵火により全山焼失、万治2年(1659)末寺の檜木寺と合併して現在地に再興された。
吉祥寺から64番前神寺までの遍路道周辺がこの合戦最大の激戦地であり、敵味方の戦死者を弔うために築かれた千人塚をはじめ、討ち死にした武将の墓などが散在する。丹民部守神社(民部塚)、大久保四郎兵衛の墓などは今も信仰を集める。
寺宝のマリア観音は高麗焼の純白の像で、長宗我部元親が浦戸に漂着したイスパニア船の船長から贈られたもの。後に金子元宅から吉祥寺に預けられたともいわれる。
福聚閣には七福神から毘沙門天を除いた六福神を祀る。また、境内にある成就石は、石鎚山麓の滝壺にあったという穴の開いた石である。目隠しをして金剛杖を穴に通すことができれば、願い事が叶うという。その隣にあるくぐり吉祥天女の下をくぐると御利益があるとか。
寺の南200mほどの所には番外霊場・芝井の泉(芝井水大師)がある。弘法大師が、水が乏しい土地であるにもかかわらず、遠方から汲んできた水を快く施してくれた老婆のため、錫杖で地面を突くと湧き出したという湧水である。古来、「芝井の御加持水」「長寿水」と呼ばれ、日照りのときにも涸れることがないという。

写真帖

  • 成就石

    成就石

  • 大師堂

    大師堂

  • 本堂

    本堂

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