創建年代は不詳だが、平安時代に遡るともいわれる。親鸞聖人の高弟で関東六老僧の一人・了海上人は当社の霊験により誕生したという伝承がある。元は権現台に鎮座していたが、明治43年(1910)品川操車場の埋立工事に伴って東大井の来福寺境内に遷り、その後、日本理化工業の社有地を経て昭和63年(1988)現社地に遷座した。
正式名称 | 大井蔵王権現神社〔おおい ざおうごんげんじんじゃ〕 |
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御祭神 | 建速須佐男命 金山毘売命 金山毘古命 |
社格等 | - |
鎮座地 | 東京都品川区大井1-14-8 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1)平成20年拝受の御朱印。中央の朱印は「蔵王大権現 神璽」、右上は「福寿開運」、左下は「大井蔵王権現神社印」。
(2)荏原七福神、福禄寿の御朱印。平成23年拝受。
御由緒
当社奥殿に安置されている石堂は権現台(現在の広町二丁目、JR東日本東京総合車両センターのあたり)に祀られていた。創建については不詳だが、10世紀(平安時代)に鎮座したとも伝えられる。
『新編武蔵風土記稿』には、大井6丁目にある浄土真宗(単立)・光福寺の中興開山・了海上人が当社の霊験によって誕生したという伝承が記されている。了海上人は親鸞聖人の高弟で関東六老僧の一人に数えられ、麻布善福寺を真宗に改めて中興開山となった高僧である。
了海上人の父は鳥羽天皇の皇胤信光の子・頭中将光政といった。故あって東国に配流され、民間に下っていた。子どもがいないことを嘆き、ある時、斎戒して蔵王権現に祈願したところ、星が妻の胎に入るという夢を見た。その後に了海を身ごもったため、これは蔵王権現の奇特であるとして宮社を建立したという。
また同じ頃、光福寺の住職・覚円律師の夢に聖徳太子が現れ、「光政の子は蔵王の化身であるから、汝は新たに井戸を掘り、産湯とするように」と告げた。そこで境内の松の木の下を掘ると清水が湧き出したという。了海上人が産湯として使ったこの井戸は大井と名付けられ、村の名も大井村としたという。
明治43年(1910)品川操車場埋め立て工事に伴って東大井の来福寺に遷され、さらに大正14年(1925)日本理化工業の社有地に遷る。昭和63年(1988)現在地に社殿を建立し、遷座する。
江戸時代、江戸で火事や疫病が流行ったとき、この辺りが無事であったのは大井村の蔵王権現の天狗のおかげだとされた。そこで、祭礼には太鼓を叩いたり天狗を祀った神輿を担いだりした。これが「天狗祭り」や「大井蔵王権現太鼓」の由来だという。
荏原七福神の福禄寿を祀る。
資料
新編武蔵風土記稿
蔵王権現社
除地八畝十歩。村の北の方にあり。祭礼毎年九月三日、神酒を供す。此社あるにより此あたりを権現台とよべり。
光福寺
(前略)寺伝に云、了海の父は鳥羽院の皇胤信光の嫡男にて頭中将光政といへり。和泉の刺史に任ず。母は滋野井宰相の女なり。光政故ありて東国へ配流せられ、民間に下れり。されど常に一子の無を嘆きける故、或時斎して蔵王権現へ祈誓せしが、或る夜の夢に天より星下りて母の胎に入れり。夢覚し後、了海を妊みたれば、これ蔵王の奇特なりとて宮社を造りて是を鎮坐す。今、品川原にある権現の祠これなり。又其頃、当寺の住持覚円律師の夢に聖徳太子枕上に現じて曰、「光政の子は即ち蔵王の化身なり。汝宜く新たに井を穿ち、産湯の水にすすむべし」と。由て境内松樹の下に井を掘るに、人力を借ずして清泉涌出して井となる。時に建仁元年六月十五日男子誕生あり。彼水を汲て産湯となし、童名を松丸と名付く。此井霊泉なるによりて大井山と号し、村をも大井村と名付く。(後略)
写真帖
メモ
大井町駅から西に5分ほど歩いたところにある小さな神社。地元の崇敬者によって大切に祀られてきたようで、現在地に移ったのはそれほど昔ではないが、地域に溶け込んだお社という印象である。
大井蔵王権現神社の概要
名称 | 大井蔵王権現神社 |
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旧称 | 蔵王権現社 |
御祭神 | 建速須佐男命〔たけはやすさのおのみこと〕 金山毘売命〔かなやまびめのみこと〕 金山毘古命〔かなやまびこのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都品川区大井一丁目14番8号 |
創建年代 | 平安時代(?) |
社格等 | (単立神社) |
例祭 | 10月第3日曜日と前日 |
神事・行事 | 4月第3土・日曜日/天狗祭り |
巡拝 | 荏原七福神(福禄寿) |
交通アクセス
□JR京浜東北線・東急大井町線・りんかい線「大井町駅」より徒歩約5分