国学四大人の一人・平田篤胤を祀る。明治の初め、平田家の邸内社として創祀された。明治14年(1881)小石川区小日向第六天町(現・文京区春日)に遷座。さらに昭和34年(1959)現在地に移転した。
正式名称 | 平田神社〔ひらたじんじゃ〕 |
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御祭神 | 神霊真柱平田篤胤大人命 |
社格等 | 旧無格社 |
鎮座地 | 東京都渋谷区代々木3-8-10 [Mapion|googlemap] |
平田神社の御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。朱印は「平田神社」、右上は鎌卍の神紋。
(2)平成22年拝受の神代文字の御朱印。揮毫はアヒルクサ文字で「カムナガラ(惟神)」。朱印は「平田神社」。右上の印は判読できません。
御由緒
祭神の平田篤胤は荷田春満〔かだのあずままろ〕・賀茂真淵〔かものまぶち〕・本居宣長とともに国学の四大人と称される国学者・神道家である。その思想は尊王攘夷の支柱となり、明治維新の原動力となった。
安永5年(1776)久保田(秋田)藩士・大久保祚胤の四男として久保田城下(現在の秋田市)に生まれる。20歳で江戸に出て、さまざまな職業に就きながら苦学する。25歳のときに備中松山藩士・平田篤穏〔ひらたあつやす〕の養子となる。
享和元年(1801)本居宣長の没後の門人となる(同3年ともされる)。同3年(1803)28歳の時、処女作『呵妄書』を著し、太宰春台の『弁道書』の日本蔑視を論駁した。文化3年(1806)私塾・真菅乃屋を開く。同13年(1816)気吹舎と改称している。
以来、『古道大意』『俗神道大意』『霊能真柱』『古史成文』『古史伝』など百部千余巻という著作をものにしている。その研究は仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教に及び、さらに西洋医学・ラテン語・暦学・易学・軍学にも精通していた。
文化5年1808)には白川神祇伯家より諸国の神職への古学の教授を委嘱され、伯家学則を改訂している。さらに文政6年(1823)には神祇管領の吉田家からも古学の教授を依頼されている。いわば全国の神職に古道を教授する立場になったわけである。
天保12年(1841)『天朝無窮暦』の内容が問題となり、幕府より久保田への国許退去・著述差留を命じられる。同14年(1843)68歳で没す。弘化2年(1845)白川家より「神霊眞柱大人〔かむたまのまはしらうし〕」の号を贈られた。
平田神社は明治の初め、平田家の邸内社として創祀された。明治14年(1881)明治天皇の御下賜金をもとに小石川区の小日向第六天町(現在の文京区春日二丁目)に遷座、さらに昭和34年(1959)現社地に遷った。同62年(1987)、現在の建物が完成している。
写真帖
メモ
小田急線南新宿駅から約200m、JR代々木駅から約500mほどの住宅地の中に鎮座する。三階建ての建物の一階部分が神社の拝殿になっており、奥に突き出す形で本殿がある。
御神徳に関しては、由緒書に文化(学問・芸術・道徳・宗教)・建康(医薬)・豊かな生活(財運)・世直し(社会開発・社会革命)・人生指針(易占・教導)が挙げられている。特に学問の神様として位置づけられているようだが、確かに諸学に通暁した平田篤胤の博識には目を見張るものがある。
また、宗教という観点では、日本の宗教、特に新宗教を考える上で平田篤胤の思想の影響はもっと評価されるべきだと考える。
拝殿の中には授与所があり、お札やお守りの他、篤胤直筆の神代文字のコピーや気吹舎に伝わる印なども授与している。
なお、他に平田篤胤を祀る神社として、生地・秋田に彌高神社がある。
平田神社の概要
名称 | 平田神社 |
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御祭神 | 神霊真柱平田篤胤大人命〔かむたまのみはしら ひらたあつたねうしのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都渋谷区代々木三丁目8番10号 |
創建年代 | 明治初年 |
社格等 | 旧無格社 |
例祭 | 11月3日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 |
交通アクセス
□JR山手線・中央線・都営大江戸線「代々木駅」より徒歩約7分
□小田急線「南新宿駅」より徒歩約5分