社伝によれば天正年間(1573~92)以前より祀られていた。徳川家康の家臣で当地を領した斎藤惣左衛門がお告げを受け、荒れ果てていた当社を再興したと伝えられる。正徳5年(1715)このあたりで疫病が流行ったが、当社の霊験で多くの子どもたちが救われた。以来、「子安稲荷」と称されるようになったという。
正式名称 | 稲荷神社〔いなりじんじゃ〕 |
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御祭神 | 保食神 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都豊島区上池袋2-38-4 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | https://www.koyasu-inari.com/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。朱印は「稲荷神社」、右に「こやす稲荷社」。
(2)平成29年拝受の御朱印。朱印・揮毫ともに平成17年のものと同じ。
御由緒
新田堀之内村の鎮守。別当寺はなく、村民持ちであった。
創建については不詳だが、天正18年(1590)徳川家康が江戸に入り、旗本の斎藤惣左衞門が当地を領するようになる以前から祀られていたとされる。
斎藤惣左衞門は神仏への信仰篤く、また領民と親しく交わり、善政を敷いたので領民からの信頼も篤かったという。
伝承によれば、初秋のある日、領内を視察していた惣左衞門が当地にさしかかったとき、一天にわかにかき曇って激しい雷雨となった。途方に暮れた惣左衞門が周囲を見回すと、森の中から白髪の老翁が手招きをしていた。急いで老翁のもとへ赴くと、森の中の朽ちかけた社に案内された。感謝して社前に額ずき、老翁のほうを振り返ると、不思議なことにその姿はなく、雷雨もやんでいた。
ある夜、惣左衞門の夢枕に一人の老翁が現れ、「我はこの里の稲荷の眷属であり、長くこの土地に住んでいる。しかし、今や稲荷の社祠は朽ち果てて尊厳を失うこと甚だしく、このことを顧みるものもいない。ついては、社を再建し、神の尊厳の護持に協力してもらえないだろうか。このことを聞き入れてくれるならば、神徳の大功力をもって汝の領内の安泰と五穀豊穣を守護し、火難の災いからも免れさせるであろう。このことを伝えたいがために、過ぐる日、汝が巡視中に神通力を持って雷雨を起こし、奇異を起こしたのである。夢にも疑うことなかれ」と告げた。
そこで惣左衞門は名主の豊田覚右衛門と謀り、社地を寄進し、社殿を建立して土地の鎮守とし、自ら祭事を奉仕したという。
また、惣左衞門の子息も稲荷大神の霊験を感得し、宝永5年(1708)大塚・通玄院の日幸上人に開眼を請うたという。
正徳5年(1715)この地に疫病が流行したとき、村人たちが稲荷大神に一心不乱に祈願した。すると、霊験著しく多くの子供たちが病から救われたので、「子安稲荷」と称されるようになった。
明治の初めの社格制定に際しては無格社となったが、大正14年(1925)村社に昇格した。
写真帖
メモ
池袋駅から歩いて10分ほどの住宅地の中にある小さな神社。広い境内ではないが、緑が多く、気持ちのよい空間である。
神社の由緒書や『平成「祭」データ』には明治の社格制定時に無格社となったことしか書かれていなかったため、旧無格社と判断していた。しかし、昭和13年の『豊島区大総覧』に大正14年(1925)村社昇格の記述があったので訂正した。
なお、同書では御祭神が「保食神(豊受姫命) 大鳥神」となっている。現在の御祭神は保食神一柱で、『平成「祭」データ』によれば大鳥大神は末社・猿田彦神社の相殿に祀られているが、その辺りの経緯は確認できていない。
子安稲荷神社の概要
名称 | 稲荷神社 |
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通称 | 子安稲荷神社 |
御祭神 | 保食神〔うけもちのかみ〕 |
鎮座地 | 東京都豊島区上池袋二丁目38番4号 |
創建年代 | 天正年間(1573~92)以前 |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 9月第1土・日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月3日/節分祭 旧2月初午の日/初午祭 6月30日/大祓 12月30日/大祓 ※『平成「祭」データ』による |
交通アクセス
□JR・東武・西武・東京メトロ「池袋駅」より徒歩約9分、またはバス
■東口より都営バス浅草寿町行き「上池袋一丁目」下車徒歩すぐ