元は鷺明神と称し、雑司が谷鬼子母神の境内に鎮座していた。正徳2年(1712)松江藩主松平公が鷺明神に祈禱して嫡男の疱瘡が快癒したことから、雑司が谷鬼子母神の境内に祀ったという。明治の神仏分離で独立し、大鳥神社と号するようになった。
正式名称 | 大鳥神社〔おおとりじんじゃ〕 |
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御祭神 | 日本武命 〈相殿〉倉稲魂命 |
社格等 | 旧無格社 |
鎮座地 | 東京都豊島区雑司が谷3-20-14 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。中央と左下の朱印は「大鳥神社」、右上は金囊(巾着)。
(2)平成28年夏詣で拝受した御朱印。中央の朱印は「大鳥神社」、左下は「大鳥神社社務所」。右上に金囊(巾着)と鷺、左上は「夏詣」。右下は都電神社巡りの都電車両のスタンプ。
(3)平成29年初詣で拝受の御朱印。中央の朱印は金囊(巾着)に「鷺大明神」。右上の印は金囊、左下は「大鳥神社社務所」。左上に金で「初詣」、右下に都電車両。
(4)平成29年に拝受した境内社・西宮神社の御朱印、雑司が谷七福神の恵比寿神。中央上の朱印は三つ柏の神紋、下は「西宮神社」、右上に金囊(巾着)。
御由緒
元は雑司ヶ谷鬼子母神(威光山法明寺の境外仏堂・鬼子母神堂)の境内に鷺明神として祀られていた。
『新編武蔵風土記稿』などによると、正徳2年(1712)松江藩主松平公の嫡男が天然痘にかかった。託宣によって鷺明神に祈願したところ、霊験を得て快癒したため、雑司ヶ谷鬼子母神の境内に祀ったのが始まりであるという。鷺様とも呼ばれ、疱瘡除けの守り神として信仰を集めたという。
もともと雑司ヶ谷の鎮守は鬼子母神であった。しかし、明治の神仏分離により、鬼子母神を氏神とすることはできなくなったので、鷺明神を大鳥神社と改称して分離し、氏神とすることになった。とはいえ、鎮座地を確保することも難しく、40坪の借地に祠がある程度であった。
明治20年(1887)これを見かねた旧幕臣の矢嶋昌郁は、200坪の自宅を寄進するとともに、自ら祠主となって神社の復興に努めた。
その後、近隣の発展とともに社運も興隆し、氏子崇敬者の協力を得て境内を拡張整備した。現在の社殿は昭和57年(1982)秋に竣工したものである。
境内社の三杉稲荷神社は大鳥神社の兼務社であったが、昭和42年(1967)首都高速五号線開設のため、大鳥神社境内に移転鎮座した。
11月の酉の市は多くの参拝者が参拝し、東京を代表する酉の市の一つとなっている。
写真帖
メモ
雑司ヶ谷鬼子母神からほど近い住宅地の中に鎮座する。落ち着いたたたずまいの境内だが、これが明治の半ばまで境内地すら借地であった状態だったというのだから驚きである。戦後、多くの神社が境内を売却して復興資金を確保していた時代に、むしろ境内を広げていったということで、歴代宮司や氏子崇敬者の敬神の念を感じさせられる。
雑司が谷大鳥神社の概要
名称 | 大鳥神社 |
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通称 | 雑司が谷大鳥神社 |
旧称 | 鷺明神 |
御祭神 | 日本武命〔やまとたけるのみこと〕 〈相殿〉 倉稲魂命〔うかのみたまのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都豊島区雑司が谷三丁目20番14号 |
創建年代 | 正徳2年(1712) |
社格等 | 旧無格社 |
例祭 | 9月10日前後の土・日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月10日/新年祭 旧2月上午の日/初午祭 6月30日/大祓式 11月酉の日/酉の市 12月31日/大祓式・除夜祭 ※『平成「祭」データ』による |
巡拝 | 雑司が谷七福神(恵比寿) |
交通アクセス
□東京メトロ副都心線「雑司が谷駅」より徒歩約2分
□都電荒川線「鬼子母神前」より徒歩約3分