青砥神社

青砥神社

青砥神社は葛飾区青戸・白鳥(かつての青戸村)の総鎮守。江戸時代以前は三社明神と称し、天正4年(1576)頃には当地の鎮守として祀られていたことが文献からわかる。明治5年(1872)白髭神社と改称、昭和18年(1943)白山神社を合祀して青砥神社と改めた。

正式名称 青砥神社〔あおとじんじゃ〕
御祭神 猿田彦命 建御名方命 宇迦之御霊命 〈合祀〉伊邪那美命 高皇産霊神 誉田別尊 菅原道真公 彌都波能目神 青砥藤綱公
社格等 旧村社
鎮座地 東京都葛飾区青戸7-34-30 [Mapion|googlemap]
最寄り駅 青砥(京成)
バス停:青砥中央集い交流館
公式サイト http://www.aoto-jinja.com/
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御由緒

青砥神社は、青戸村(現在の葛飾区青戸・白鳥)の鎮守。稲荷・白髭・諏訪の神を相殿に祀り、江戸時代以前は三社明神と称していた。旧別当は隣接する真言宗の両鎮山観音寺であった。

観音寺は天正4年(1576)の創建で、文献に三社明神社の名前が現れるのもこの頃からのことという。

明治5年(1872)社号を白髭神社と改め、村社に列格。

昭和18年(1943)旧青戸四丁目に鎮座していた白山神社を合祀し、青砥神社と改称した。同35年(1960)には同じく旧青戸町内に鎮座していた高木神社・八幡神社・北野神社・葛葉稲荷神社・水神社を合祀した。

さらに昭和45年(1970)から55年(1980)にかけて行われた環状7号線の整備に伴い、葛西城跡に祀られていた青砥藤綱神社を合祀した。

青砥藤綱は鎌倉時代の武士で、執権・北条時頼の下で引付衆(または評定衆)として活躍した。名判官として名高く、その逸話が『太平記』に記されているほか、歌舞伎や浄瑠璃でも理想的な為政者として描かれた。青戸に屋敷があったという伝承がある。

御朱印

  • 青砥神社の御朱印

平成21年に拝受した書き置きの御朱印。中央の朱印は「青砥神社」。

写真帖

  • 鳥居

    鳥居

  • 忠霊塔

    忠霊塔

  • 手水舎

    手水舎

  • 神楽殿

    神楽殿

  • 拝殿

    拝殿

  • 本殿

    本殿

メモ

国道6号線と環七通りの交差点から少し南東に鎮座する。背後は亀有ポンプ場、中川にもほど近く、あまり周囲に住宅が建て込んでいるというわけでもないので、いかにも郊外という印象である。
駅名が「青砥」なので、「青砥神社」という社号に疑問を持たなかったのだが、昔から現在に至るまで、この地の地名は「青戸」であって、「青砥」が使われたことはないらしい。すぐ近くにある葛西城跡が青砥藤綱の屋敷跡と考えられていたことに因むのではないかと思われる。ただ、葛西城は鎌倉時代から葛西氏の本拠地だったようなので、青砥藤綱の屋敷があったとは考えにくいらしい。
御朱印は書き置きのものをいただいた。

青砥神社の概要

名称 青砥神社
旧称 三社明神 白髭神社
御祭神 猿田彦命〔さるたひこのみこと〕
建御名方命〔たけみなかたのみこと〕
宇迦之御霊命〔うかのみたまのみこと〕
〈相殿〉
伊邪那美命〔いざなみのみこと〕
高皇産霊神〔たかみむすびのみこと〕
誉田別尊〔ほんだわけのみこと〕
菅原道真公〔すがわらのみちざねこう〕
彌都波能目神〔みずはのめのかみ〕
青砥藤綱命〔あおとふじつなこう〕
鎮座地 東京都葛飾区青戸七丁目34番30号
創建年代 天正4年(1576)
社格等 旧村社
例祭 9月9日
神事・行事 1月1日/歳旦祭
2月3日/節分祭
6月30日/夏越大祓
7月15日/水神社例祭
12月31日/大祓

交通アクセス

□青砥駅(京成)より徒歩約15分、またはバス
■京成バス慈恵大学葛飾医療センター行「青砥中央集い交流館」下車徒歩3分


※掲載の情報は最新のものとは限りません。ご自身で確認をお願いします。

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