寛永7年(1630)の創建と伝えられる。当地のかつての町名が西大工町だったことから西大稲荷と呼ばれていた。昭和27年(1952)より深川稲荷神社と称するようになった。深川七福神の布袋尊を祀る。
正式名称 | 深川稲荷神社〔ふかがわいなりじんじゃ〕 |
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御祭神 | 倉稲魂命 〈合祀〉布袋尊 |
社格等 | 旧無格社 |
鎮座地 | 江東区清澄2-12-12 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1)平成27年拝受の御朱印。朱印・揮毫ともに「深川稲荷神社之印」。
(2)深川七福神、布袋尊の御朱印。平成19年拝受。
※どちらも深川七福神の巡拝期間(1月1日~15日)にのみ拝受できるようである。
御由緒
深川稲荷神社は寛永7年(1630)の創建と伝えられる。かつての町名が西大工町であったことから俗に西大稲荷と呼ばれていた。
昭和27年(1952)より深川稲荷神社と称するようになった。
補足
西大工町について調べてみると、明治2年(1869)海辺大工町のうち上町・仲町・高橋通西側が合併して深川西海辺大工町一・二丁目となり、さらに同4年(1871)一丁目が深川西大工町と改称、隣接する御船手屋敷や大名屋敷地を合併して成立したようだ。
『日本地名体系 東京都の地名』によれば、『東京府志料』には深川西大工町に深川稲荷社と玉穂稲荷社があると記されているという。とすれば、現在の深川稲荷神社(旧・西大稲荷神社)は両社のうちのいずれか、もしくは両社を合祀したものと考えるのが妥当だろう。
『御府内備考』によれば、玉穂稲荷は上町にあって文化元年(1804)の勧請、船玉明神と水神を相殿に祀っていた。一方、深川稲荷は仲町に祀られていた。元は隣接する松平錫様(津山松平家か?)の屋敷内に古くから祀られていたが、寛政10年(1798)町内に引き取り、同12年(1800)再興したという。
どちらも寛永7年(1630)創建という伝承には合致しないが、神社の位置から考えて仲町にあったという深川稲荷社を当社の前身とするのが妥当と思われる。
この推測がただしければ、深川稲荷への改称は新しく深川の名を冠したというわけではなく、江戸時代の通称を正式名称にしたということなのかも知れない。
嘉永5年(1852)の「本所深川絵図」を見ると、本誓寺の北のほぼ現在の位置と思われる場所に「稲荷」とあるが、これが深川稲荷社と玉穂稲荷社のどちらかは判断できない。ちなみにその南にある久世大和守(下総関宿藩主の久世氏)の屋敷は現在の清澄庭園である。
資料
御府内備考
(海辺大工町上町分)町内持稲荷社
右、町内北側中程に之有り、霊雲院裏門地先河岸地。文化元子年二月中より借地致し、町内地面舟之稲荷一社勧請致し、船玉明神並びに水神相社に致し置き、玉穂稲荷と相唱え申し候。尤も別当・神主等御座無く候。
(海辺大工町仲町分)稲荷社
右、町内北側中程に之有り。町地之内借地、社相建て仕り、勧請致し置き候。正一位深川稲荷と唱う。神体之無し、幣束斗りに御座候。先年は南之方松平錫様御屋敷内に古来より勧請致し之有り、町内持稲荷之由申し伝うに、而して寛延元辰年神田旅籠町より出火の節、稲荷之官位類焼致し由、申伝・旧記・書物等も之無し。由緒起立等之儀相知申さず。寛政十午年中町内へ引き取り、其の後同十二申年中位再興仕り候。
深川区史
西大稲荷神社
西大工町にあり、祭神宇賀魂命無格社である。
由緒不明境内二十五坪、現神職山田忠孝。
写真帖
メモ
地下鉄半蔵門線・大江戸線の清澄白河駅から徒歩数分のところに鎮座する。神職不在で、深川七福神の巡拝期間のみ、町会の方が対応している。
初めての参拝は平成19年の深川七福神巡りで、当時は布袋尊の御朱印のみだった。ところが近年神社の御朱印も始めたという情報を得て平成27年の正月に参拝、拝受した。
深川稲荷神社の概要
名称 | 深川稲荷神社 |
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旧称 | 稲荷神社 西大稲荷 |
御祭神 | 倉稲魂命〔うかのみたまのみこと〕 〈合祀〉 布袋尊〔ほていそん〕 |
鎮座地 | 東京都江東区清澄二丁目12番12号 |
創建年代 | 寛永7年(1630) |
社格等 | 旧無格社 |
例祭 | 3月25日 |
巡拝 | 深川七福神(布袋尊) |
交通アクセス
□都営大江戸線「清澄白河駅」より徒歩1分
□東京メトロ半蔵門線「清澄白河駅」より徒歩7分
□都営新宿線「森下駅」より徒歩7分