深川の地を開拓した深川八郎右衛門が屋敷内に祠を設け、伊勢神宮の御分霊を勧請したことに始まる。当時の深川は住む人も少ない原野であったというが、深川の発展に伴い、総鎮守神明宮として広く崇敬を受けるようになった。
正式名称 | 深川神明宮〔ふかがわしんめいぐう〕 |
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御祭神 | 天照大御神 |
社格等 | 旧郷社 |
鎮座地 | 東京都江東区森下1-3-17 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.fukagawa-shinmei.com/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。中央の朱印は「深川神明宮」、右下に三つ巴の神紋。
(2)平成24年拝受の御朱印。右上に「深川発祥」の墨書が入る。
(3)末社・和合稲荷神社の御朱印。平成24年拝受。朱印はないが記帳のみでよければということで対応してくださった。現在対応してくださるか否かは未確認。
(4)深川七福神、寿老神の御朱印。平成19年拝受。
御由緒
今から400年ほど前、摂津の人・深川八郎右衛門が一族を引き連れて当地を開拓するにあたり、屋敷内に小祠を設けて伊勢神宮の御分霊を奉斎したことに始まる。
慶長元年(1596)江戸に入った徳川家康がこの地を訪れ、八郎右衛門に地名を尋ねたところ、未だ人も少なく地名のないと答えたので、八郎右衛門の姓をとって「深川」とするよう命じたという。
後、江戸の繁栄に伴って深川も発展し、神明宮は深川の総鎮守として崇敬を集めた。南部の富岡八幡宮に対して、深川北部を氏子地とする。
別当は深川氏の菩提寺で八郎右衛門の兄・秀順法印の開いた医王山泉養寺(関東大震災により市川市国府台に移転)。深川氏は宝暦7年(1757)に断絶するが、墓所は現在も泉養寺に残る。
明治5年(1872)郷社に列格。関東大震災では焼失を免れ、第二次大戦の空襲でも本殿は無事であったという。現在の社殿は昭和43年(1968)に再建されたものである。
資料
明治神社誌料
東京府武蔵国東京市深川区西森下町
郷社 天祖神社
祭神 天照大御神創建の年代詳かならず、当社は不幸にして幾度か祝融の災にかゝりしため、社記の如きも焼失して今は伝はらずといふ、惜むべきことなり、只大日本地名辞書に「森下町の神明宮は近年天祖神社と改称す、延宝図に、六軒堀の西に天神、東に明神の二祠を載す、天神は後年退転し、今明神のみ存す」と見ゆ、境内は九百余坪の官有社地にして、社殿は、本殿、幣殿、拝殿、神供所、神楽殿、社務所、水屋等整然として立ち、頗る壮観なり、明治五年十月郷社に列せらる。
境内神社
道祖神社 北野神社 疱瘡神社 和合神社 浅間神社 御嶽神社
深川区史
天祖神社
西森下町にあり社格は郷社で、祭神は天照大神、後土御門天皇の宸筆太神宮三字の短冊を神体とすると云ふ。創立年代は明かではないが、往古からここに社があり深川村創立当時よりの鎮守であると云ふ。一説に本社は慶長七年駿府よりこの地に移りしものと云ひ、旧別当泉養寺にも同様の伝説があるが元より信ずべき根拠はない。又深川八郎右衛門の開拓に着手せられた土地で、従つて彼の関係した伝説も残してはゐるが記す程のこともない。或は深川氏の入る前に多少人が住つて居て、ささやかな宮居が古くから存してゐたものと考へるのが妥当かもしれぬ。これが次第に大きくなつたのは近傍の発達に助長せられたもので、現在は南部の八幡社に対して北部の大部分を氏子としてゐる。
社地千五百八十八坪、境内地九百七十五坪現神職は林精一である。当社は這般の震災にも奇跡にも焼残つた。
写真帖
メモ
神社の由緒にもあるように、深川神明宮周辺(森下)が深川発祥の地とされる。『江戸名所図会』によれば当地が深川氏宅地の旧跡と伝えられているという。
深川神明宮の概要
名称 | 深川神明宮 |
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旧称 | 神明宮 天祖神社 |
御祭神 | 天照大御神〔あまてらすおおみかみ〕 |
鎮座地 | 東京都江東区森下一丁目17番3号 |
創建年代 | 慶長年間(1596~1615)以前 |
社格等 | 旧郷社 |
例祭 | 8月17日に近い日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月1日~15日/七福神めぐり 1月6日/新年祭 2月節分/節分祭 6月30日/大祓式 9月敬老の日/末社和合稲荷神社・寿老神社例祭 11月23日/秋祭(新穀感謝祭) 12月31日/大祓式・除夜祭 |
巡拝 | 深川七福神(寿老神) |
交通アクセス
□都営新宿線・大江戸線「森下駅」より徒歩2分
□東京メトロ半蔵門線「清澄白河駅」より徒歩5分