吹揚神社は明治5年(1872)今治城下に鎮座していた神明宮、蔵敷八幡宮、美保神社(夷子宮)、厳島神社を合祀し、旧今治城本丸跡に社殿を造営したことに始まる。社号は今治城の別名・吹揚城に因む。後に藤堂高虎、久松定房を配祀した。昭和13年(1938)に社殿を改築するが昭和20年(1945)戦災で焼失。昭和33年(1958)復興を完了するが、昭和55年(1980)放火で再度焼失。現在の社殿は昭和58年(1983)再建されたものである。
正式名称 | 吹揚神社〔ふきあげじんじゃ〕 |
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御祭神 | 天照大神 八幡大神 事代主神 厳島大神 藤堂高虎 久松定房 |
社格等 | 旧県社 |
鎮座地 | 愛媛県今治市通町3-1-1 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | https://fukiageshrine.jp/ |
御朱印
(1)平成21年拝受の御朱印。揮毫・朱印ともに「吹揚神社」。
(2)令和6年拝受の御朱印。朱印は(1)と同じ「吹揚神社」。右に「今治城内鎮座」の黒印と「吹揚神社参拝記念」のスタンプ。
(3)令和6年拝受、書き置きの御朱印。「吹揚神社」と「今治城内鎮座」の印は(2)と同じ。台紙に拝殿の写真。
(4)境内社・吹揚稲荷神社の御朱印、書き置き。印は御本社のものと同じで、揮毫は「吹揚稲荷神社」。
昔の御朱印
(5)大正13年の御朱印。揮毫は「今治市旧城台鎮座/吹揚神社/社務所」。中央の朱印は「吹揚神社神璽」、左下の印は「伊豫國今治縣社吹揚神社社務所之印」。
吹揚神社について
御祭神
創建に際して合祀された今治城下の諸社に祀られていた神々を御祭神とするが、資料によって扱いが多少異なる。境内の掲示には下記の六柱が挙げられている。
■天照大神
■八幡大神
■事代主大神
■厳島大神
■藤堂高虎
■久松定房
天照大神は創建に当たって合祀された四社のうちの神明宮、八幡大神は蔵敷八幡宮、事代主命は夷子宮、厳島大神は厳島神社の御祭神である。
藤堂高虎は慶長5年(1600)今治藩主となり、今治城を築いた。合祀の時期は不詳だが、戦後のことのようである。
久松(松平)定房は徳川家康の異父弟・松平(久松)定勝の五男で、今治藩主松平(久松)氏の初代。江戸時代には安霊神として、松ノ本花園の天満宮に祀られていた。大正14年(1925)に合祀されている。
神社でいただいた由緒書には「天照大神・八幡大神・事代主大神・大己貴大神・厳島大神・住吉大神・猿田彦大神・宇迦之御魂神(稲荷神社)・菅原道真・藤堂高虎、※外に数神合祀あり」とある。公式サイトはこれに久松定房を入れる。ただし、これらには宇迦之御魂神(吹揚稲荷神社)のように境内社の御祭神も含まれる。
『平成「祭」データ』は天照大神・事代主神・八幡大神を主祭神とし、厳島大神を配祀、姫坂大神・貴布禰大神を合祀とする。姫坂大神・貴布禰大神は蔵敷村に鎮座していた美保神社の御祭神で、明治42年(1909)に合祀された。
由緒
吹揚神社は、明治4年(1871)廃藩置県に際し、官許を得て今治城下に鎮座していた神明宮・蔵敷八幡宮・夷子宮・厳島神社を合祀することとなった。明治5年(1872)旧今治城本丸跡に社殿を造営して遷座。社号は今治城の別名・吹揚城に因んで名付けられた。
この時に合祀された4社の由緒は以下の通り。
■神明宮
天長5年(828)伊勢神宮の御分霊を日吉郷に勧請したことに始まると伝えられ、4社の中で最も古い由緒を持つ。慶長3年(1598)今治村内の後の神明町(現在の共栄町)に遷座。藤堂高虎はこの地の鎮守と定め、神門を城内に向けて建築したと伝えられる。
■蔵敷八幡宮
座王八幡あるいは六條八幡とも称し、清和天皇の勅願により日吉郷の一宮として勧請されたと伝えられる。古くは現在の吹揚小学校付近に鎮座していたという。
慶長7年(1602)、藤堂高虎が今治城を築くに当たり、社地が城内に含まれることになったため、日吉村字一丁と蔵敷村的場の境界付近に遷し、社殿及び別当・正福寺(現在の高野山今治別院)を造営して氏神とした。松平(久松)定房が今治藩主として入封した後も氏神として尊崇。社殿・別当寺の営繕料や祭典料も藩より寄進され、領内第一の崇敬社として繁栄した。
なお『愛媛面影』には「今治一藩の産土神」とあり、河野の祖神を祀るという説があることを紹介している。
■夷子宮
中浜町三丁目に鎮座し、俗に中夷子社と称された。社伝によれば、その昔、風早町が海岸であったが、その先が埋め立てられ、中浜町や片原町が開かれたときに祀られたという。明治4年(1871)美保神社と改称した。
■厳島神社
元は日吉郷にあって名津宮と称したが、蒼社川改修の時に城下の川岸端〔かしばた〕に遷された。御祭神は湍津比売命・田心比売命・市杵島比売命の三女神で、総称して厳島大神という。
明治5年(1872)11月19日、新社殿への遷座と同時に郷社に列格。さらに明治15年(1882)県社に昇格した。
明治42年(1909)2月、蔵敷に鎮座していた美保社(姫坂大神・貴布禰大神)を合祀、さらに大正14年(1925)8月、境内社の松ノ本天満宮(菅原道真・徳川家康・安霊神=久松定房)を合祀した。
松ノ本天満宮は藩主の別荘である松ノ本花園内に鎮座しており、藩の祈祷所である光林寺(今治市玉川町畑寺)が別当であったが、明治5年(1872)11月、吹揚神社境内に遷された。御祭神の菅原道真は久松家の遠祖であり、安霊神は初代藩主・久松定房である。またこの時、同じく松ノ本花園内にあった東照宮も遷座、天満宮に合祀されたようである。
昭和14年(1939)総台湾檜で新しい社殿が造営されるが、昭和20年(1945)の空襲で焼失。昭和33年(1958)に復興を完了し、さらに城郭式神門・境内社の新築・改装を行った。
ところが昭和55年(1980)9月、放火により再び本殿と拝殿が焼失。昭和58年(1983)3月、現在の社殿が竣工した。
境内社
■吹揚稲荷神社
本社社殿の左側に朱の鳥居が並び、その奥に鎮座する。御祭神は宇迦之御魂神(稲荷大神)。旧暦2月初午に初午祭があり、餅撒きなどが行われる。
■麁香神社
社殿右側奥に鎮座する。御祭神は建設業の神として信仰される手置帆負命と彦狭知命。公式サイトによれば、元は今治村の神明宮境内に祀られており、明治5年(1872)の吹揚神社創建に際して当社境内に遷座したという。ただし昭和18年(1943)の『今治市誌』では、この二柱の神は境内社の住吉神社(厳島神社の境内社で、やはり神社創建に際して遷座した)に祀られており、『平成「祭」データ』でも住吉神社の配祀神となっている。思うに、もともと神明宮か厳島神社の境内社に祀られていたのが、吹揚神社創建に際して遷座、住吉神社に合祀され、後に建設業者の信仰が篤いことから独立した境内社とされたのではないだろうか。
■土居神社
御祭神は木之花佐久耶比売命で、安産の神として信仰を集める。元は蔵敷村字古屋敷に鎮座していたが、明治42年(1909)当社境内に遷座。この時、元は神明宮の境内社で明治5年(1872)当社境内に遷座していた大穴牟遅神社(御祭神は大穴牟遅命・金刀比羅神)を合祀した。
■住吉神社
社前の社号標に「住吉神社・猿田彦神社・海神社・天満宮」とあり、元々当社境内に鎮座していたこれらの境内社を合祀したものと思われる。社号は住吉神社だが、社殿には「天満宮」の扁額が掲げられている。
住吉神社は、元は川岸端の厳島社の境内社で、吹揚神社創建に際して当社境内に遷座した。御祭神は底筒男命・中筒男命・上筒男命(住吉大神と総称)。
猿田彦神社は今治村神明宮の境内社で御鉾社・杵築社・住吉社と称した。吹揚神社創建に際して当社境内に遷座、北新町にあった荒神社も合祀し、主祭神の名を取って猿田彦神社と称したという。御祭神は猿田毘古命・大己貴命・底筒男命・中筒男命・上筒男命。
海神社は、元は片原町二丁目に鎮座していた。明治42年(1909)当社境内に遷座し、寺町の天満宮と蔵敷の住吉神社を合祀した。御祭神は豊玉比古命・豊玉比売命・菅原道真・底筒男命・中筒男命・上筒男命。
天満宮は、大正14年(1925)に本社へ合祀された松ノ本天満宮ではないかと思われる(社殿に「天満宮」の扁額があり、本社への参道とは直角に交わる当社参道には松ノ本天満宮の注連柱が立っている)。御祭神は菅原道真。
今治城
吹揚神社が鎮座する今治城は、築城の名手として名高い藤堂高虎によって築かれた。現在は内堀と中心部の石垣が残るのみだが、かつては三重の堀に囲まれた宏大な平城であった。堀には海水が引き入れられ、城内に船入(港)が設けられた海城で、讃岐の高松城・豊前の中津城とともに三大水城の一つに数えられる。
慶長7年(1602)に築城を開始し、慶長9年(1604)に完成した。慶長14年(1609)藤堂高虎は伊勢国津へ移封となるが、今治城には養子の藤堂高吉が居城した。寛永12年(1635)高吉は伊賀国名張に移り、伊勢国長島から松平(久松)定房が入封、以後、松平(久松)氏が幕末まで居城とした。
明治維新後、外堀・中堀は埋め立てられ、城内の建造物はほとんど取り壊された。城跡は旧藩主より旧家臣たちに付与されたが、旧本丸に吹揚神社が創建されると台上すべてを社有地にしようという声が起こり、寄付金を募集してこれを買収、境外社有地となった。
大正の初め、景勝の地である城跡を公園として整備すべきという声が上がった。吹揚神社との合意の上で境内以外を町の公園とし、吹揚公園と呼ばれるようになった。
昭和28年(1953)主郭部跡と内堀が県の史跡に指定され、昭和55年(1980)から天守閣や櫓、門などが再建されている。
今治城の天守閣は吹揚神社境内のすぐ脇にそびえているが、昭和55年(1980)に再建された鉄筋コンクリート造の模擬天守である。
伝承によれば、藤堂高虎は伊勢国に移封された際、天守閣を伊賀上野城に移築するため解体した。しかし慶長10年(1605)丹波亀山城(亀岡城)の天下普請を命じられたため、これを献上して亀山城に移築したとされる。その後、江戸時代を通じて天守閣は再建されず、北隅櫓が天守の代用とされたという。
そのため築城当時の天守については資料が乏しく、また本丸跡には天守台も残ってないため、丹波亀山城旧天守の外観を参考とし、北隅櫓跡に再建された。
境内風景
広大な今治城の内堀。左手に主郭部に通じる土橋が見える。
内堀を横切る土橋が吹揚神社の参道となっており、両脇に社号標や石灯籠が並ぶ。これらの石灯籠や境内の鳥居・注連柱・狛犬などの石造物は、創建に当たって合祀された各神社から移されたものが多いようだ。
鉄御門〔くろがねごもん〕。平成19年(2007)今治城築城開町400年記念として、古写真・古文書・発掘調査の結果などに基づき、できる限り忠実に当時の姿を復元したという。
二の丸に入ると藤堂高虎公の騎馬像があり、その後ろに天守閣がそびえる。
旧本丸跡が吹揚神社の境内となっているため、城郭式の神門と塀に囲まれた境内が北隅櫓跡の天守閣と並んでいる。
正面の鳥居。弘化3年(1846)大阪の厳島講から奉納されたもの。元は川岸端の厳島神社にあったのであろう。今治が海上交通の要衝として繁栄していたことを伺わせる。
社号標。
境内に続く石段と城郭式の神門。
吹揚神社境内。参道の両脇に狛犬や注連柱、石灯籠が建つ。手前を住吉神社に向かう参道が横切っている。
参道脇の狛犬。明治7年(1874)のものなので、吹揚神社創建後間もない時期に奉納されたようだ。上に掲載した大正末~昭和初期の絵葉書に写っている狛犬と同じものであろう。
手水舎。
境内社・住吉神社。参道の右には合祀された四社の社号標、左には猿田彦神社の社号標がある。住吉神社に続く参道は、天守閣の脇から本社への参道を横切る形で続いており、途中には松ノ本天満宮の注連柱もある。
吹揚稲荷神社の鳥居。こちらへの参道は、住吉神社への参道と分岐する形で続いており、鳥居の手前には手水舎もある。
境内社・吹揚稲荷神社の社殿。鮮やかな朱色と白の対比が印象的です。
境内社・土居神社。
境内社・麁香神社。
中門。
拝殿。昭和58年(1983)再建の鉄筋コンクリート造。
拝殿の扁額「吹揚神社」。
拝殿。斜め前から。
本殿。拝殿と同じく昭和58年(1983)の再建だが、こちらは木造のようだ。
メモ
初回参拝は平成21年8月。この時は境内手前が選定作業中で、思うような写真が撮れなかった。今、見返してみると、神門前の石段など、現在とはずいぶん様子が違っている。
二度目の参拝は令和6年8月、やはり暑い夏の午後だったが、10年余りで暑さの質が違っているように思われた。とはいえ、そのような暑い日差しの中でも参拝者が訪れており、今も市民から大切に守られていることを感じさせられた。
なお、隣接する今治城天守閣では御城印を購入することができる。
吹揚神社の概要
名称 | 吹揚神社 |
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旧称 | (神明宮・蔵敷八幡宮・夷子宮・厳島神社 |
御祭神 | 天照大神〔あまてらすおおみかみ〕 八幡大神〔はちまんおおかみ〕 事代主神〔ことしろぬしのかみ〕 厳島大神〔いつくしまおおかみ〕 藤堂高虎〔とうどうたかとら〕 久松定房〔ひさまつさだふさ〕 |
鎮座地 | 愛媛県今治市通町三丁目1番1号 |
創建年代 | 明治5年(1872) |
社格等 | 旧県社 |
例祭 | 5月第2土曜日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月11日/建国祭 旧暦2月初午/初午祭 5月第3日曜日/献茶祭 旧暦6月29日/夏季大祭(住吉さん・茅の輪神事 |
文化財 | 〈県史跡〉今治城跡 |
交通アクセス
□JR予讃線「今治駅」より徒歩約25分、またはバス
■今治営業所行き「今治城前」下車徒歩約5分
参考資料
・吹揚神社公式サイト・由緒書
・『今治市誌』(今治市)
・『新今治市誌』(今治市)
・『今治の歴史散歩』(今治市教育委員会)
・『愛媛面影』(半井悟庵)
・日本歴史地名大系『愛媛県の地名』(平凡社)
・『平成「祭」データ』