社伝によれば、日本武尊が東征の途次、薬祖の大神である大己貴命・少彦名命の加護を受けたことに感謝し、上野忍岡に奉斎したことに始まるという。古くから医薬の祖神として崇敬されており、東京薬事協会によって日本橋本町に祀られている薬祖神社は当社の御分霊を勧請したものである。相殿の菅原道真は東都七天神の一に数えられる。
正式名称 | 五條天神社〔ごじょうてんじんじゃ〕 |
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御祭神 | 大己貴命 少彦名命 〈相殿〉菅原道真 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都台東区上野公園4-17 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.gojotenjinja.jp/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。上の朱印は「五條天神社印」、下は「五條天神」。
(2)平成22年拝受の御朱印、御鎮座1900年。五條天神社は二種類の御朱印を授与するようになった。こちらは従来のものと同じ。
(3)同じく平成22年拝受の御朱印。こちらは新しい大型の朱印で「五條神社之印」。
昔の御朱印
昭和2年の御朱印。中央の朱印は「五條天神社印」で、現在使われているものとほぼ同じ。枠の太さだけが違うようである。左下の印は「五條天神社社務所之印」。
御由緒
社伝によれば、日本武尊が東征の途次、上野忍ヶ岡(現在の上野公園)を通った際に、薬祖の大神(大己貴命・少彦名命)の加護をいただいたことに感謝し、この地に祀ったことを創祀とする。
堯恵法師の『北国紀行』に「正月の末、武蔵野のさかい忍ヶ岡を優遊しはべり鎮座の社五條天神と申しはべり、折ふし枯れたる茅原を焼きはべり」云々とある。この正月は文明18年(1486)のことなので、すでに室町時代には鎮座していたことがわかるという。
元は摺鉢山(正岡子規記念球場の南側)に鎮座していたというが、明暦3年(1657)寛永寺の境内を拡張するにあたり、上野広小路の黒門前右脇に遷された。さらに元禄10年(1697)寛永寺根本中堂の建築に際し、山下(後の上野五條町)にある当社の別当で連歌師・瀬川昌億の屋敷(現在のアメヤ横町入り口)に仮遷座した。新しい社地については追って願い出るように命じられていたが、適当な地がないままに明治に至ったという。
明治5年(1872)村社に列格。大正12年(1919)上野・東京駅間の鉄道高架化に伴い、境内の過半がその用地として収容されることになったため、山下町(現・上野七丁目)の鉄道省所有地に仮社殿が設けられた。9月1日午前1時より仮遷座祭が奉仕されたが、同日午前11時58分に関東大震災が発生し、その火災で仮社殿は焼失してしまった。それでも、御霊代や宝物類は上野公園の花園稲荷神社に遷すことができたという。
同13年(1924)不忍池南西隅に仮社殿を造営したが、東京都市計画事業のため移転を断念。翌14年(1925)上野公園忍坂脇の現社地に仮殿を遷し、昭和3年(1928)本殿が竣工して9月22日に遷座祭を執り行った。
古くから医薬の祖神として信仰を集め、現在も日本橋本町にある薬事協会ビルの屋上には薬祖神社として御分霊が祀られている(平成28年、日本橋本町に完成する福徳の森に遷座の予定)。
配祀の菅原道真公は、寛永18年(1641)慈眼大師天海僧正が開眼し、相殿として祀ったものという。東都七天神の一に数えられる。
補足
『下谷区史』は江戸時代の資料が上記の日本武尊東征にまつわる由緒を記さず、いずれも勧請年月不明としていることを指摘し、社名と御祭神から京都の五條天神社(京都市下京区)を勧請したものであることは明らかであるとしている。
写真帖
メモ
上野公園内、花園稲荷と同じ境内に鎮座し、社務所も同じだが、どちらがどちらの境内社というわけではなく、宗教法人としては独立した扱いになっている。公園と一体となった緑豊かな境内で、上野公園や不忍池を散策する人も立ち寄っているようだ。
五條天神社の概要
名称 | 五條天神社 |
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通称 | 五條神社 |
旧称 | 五條天神宮 |
御祭神 | 大己貴命〔おおなむちのみこと〕 少彦名命〔すくなひこなのみこと〕 〈相殿〉 菅原道真〔すがわらのみちざね〕 |
鎮座地 | 東京都台東区上野公園4番17号 |
創建年代 | 伝・景行天皇40年(110) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 5月25日近い日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月1日・2日/宝舟の神事 1月25日/初天神祭(鷽替えの神事) 2月3日/節分祭(うけらの神事) 2月25日/祈年祭 6月30日/大祓式 11月25日/新嘗祭 12月31日/大祓式・除夜祭 毎月10日/医薬祭 |
交通アクセス
□JR山手線・京浜東北線・東京メトロ銀座線・日比谷線・京成本線「上野駅」より徒歩約5分