開成山大神宮 | 福島県郡山市

開成山大神宮

「東北のお伊勢さま」と称される開成山大神宮は、明治9年(1876)、荒れ果てた原野であった当地一帯の開拓にあたり、その精神的拠り所とするために伊勢神宮の御分霊を奉遷、創立された。明治天皇は同年6月、奥羽御巡幸の際に御親拝された。

正式名称 開成山大神宮〔かいせいざんだいじんぐう〕
御祭神 天照大御神 〈相殿〉豊受大神 神倭伊波礼毘古命
社格等 旧県社
鎮座地 福島県郡山市開成3-1-38 [Mapion|googlemap]
公式サイト https://www.kaiseizan.jp/
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目次

御朱印

(1)

(1)中央の朱印は「開成山大神宮」、右上の印は花菱の神紋。揮毫は「みちのくのお伊勢さま/開成山大神宮」。

御由緒

開成山大神宮は伊勢神宮の御分霊を祀ることから、「東北のお伊勢さま」と呼ばれている。

現在は郡山市の市街地となっている開成山大神宮周辺の土地は、江戸時代までは大槻原と呼ばれる一里四方の荒れ果てた原野であった。

明治5年(1872)県官で元米沢藩士の中條政恒は拓地植民・士族授産のために大槻原を開墾することを建言しました。県令の安場保和はこれを採用し、中條を郡山に派遣して計画を進めさせました。中條は郡山の商人・阿部茂兵衛を説得し、これを受けた阿部の呼びかけで「開成社」が設立された。同6年(1873)に工事が始まり、同9年(1876)には桑野村が成立している。

しかし、開拓は極めて困難な事業であり、また入植者も士族授産で農民となった二本松藩士と近郷の農家の次男・三男が集まっていたため、中條はこの事業の成功には人心の融和が不可欠だと考えた。

そこで、当時「離れ森」と呼ばれていた小高い丘を「開成山」と名付け、ここに神武天皇の遙拝所を設けるとともに、これを中心に一大遊園地を設けて、新村の意気を発揚させる計画を立てた。明治6年天長節、翌7年の神武天皇祭、春秋二回の遙拝祭には安積郡内から6万人の人出があり、その目的を達成することができた。

明治8年(1875)本殿と拝殿が造営されると、改めて御祭神について協議が行われ、皇祖天照皇大神を主祭神とし、神武天皇と養蚕業の守護神として豊受大神を配祀することになった。

そこで教部省と神宮司庁に請願が重ねられたが、皇大神宮御分霊の奉斎は前例がないとして慎重に審議が行われた。最終的に明治天皇の御聖断と太政大臣・三条実美の決済により、同9年(1876)1月29日に請願が聞き届けられた。同年9月18日、皇大神宮の御分霊を迎え、奉遷の儀式が行われるとともに、社号を「開成山大神宮」と称することになった。

明治9年(1876)6月には、明治天皇が奥羽御巡幸の際に御親拝。また、安積疎水の起工式や通水式には、東京から伊藤博文や岩倉具視など政府の重鎮が参列して祭典が営まれた。

御奉遷百年に当たる昭和50年(1975)には、神宮から御用材の下賜を受けて本殿を造営した。なお、明治8年に造営された旧本殿は、桑野宮と称して本社三神の荒魂を祀っている。

写真帖

一の鳥居
一の鳥居
二の鳥居と神門
二の鳥居と神門
神楽殿
神楽殿
開成山稲荷大明神
開成山稲荷大明神
祖霊社
祖霊社
拝殿
拝殿
桑野宮
桑野宮

メモ

郡山駅から西へまっすぐ3km余りの所に鎮座する。背後には郡山女子大学があり、郡山市役所からも近い市街地で、ここがかつて広大な荒れ野であったとは信じられない。
拝殿は向拝つきの神明造で、社号額は有栖川宮熾仁親王の御染筆である。

開成山大神宮の概要

名称 開成山大神宮
御祭神 天照大御神〔あまてらすおおみかみ〕
〈相殿〉
豊受大神〔とようけのおおかみ〕
神倭伊波礼毘古命〔かむやまといわれびこのみこと〕
鎮座地 福島県郡山市開成3丁目1番38号
創建年代 明治9年(1876)
社格等 旧県社
例祭 4月22日(春季例祭)
10月17日(秋季例祭)
神事・行事 1月7日/左義長祭
9月18日/奉遷記念祭

交通アクセス

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