元宿神社は、天正2年(1574)当地を開拓した鈴木左衛門尉信義が、集落の東南に八幡社を、東北に稲荷社を祀ったことに始まる。明治末年、両社は千住四丁目の氷川神社に合祀されたが、昭和5年(1930)もしくは昭和10年(1935)に元宿の鎮守として分祀。元宿が元町と改称されたことにより、旧地名を残すために元宿神社と改称した。
正式名称 | 元宿神社〔もとじゅくじんじゃ〕 |
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御祭神 | 誉田別命 倉稲魂命 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都足立区千住元町33-4 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1)平成23拝受の御朱印。中央の朱印は「神璽」。
(2)千寿七福神・寿老人の御朱印、平成23年拝受。中央の朱印は「神璽」、右上の印は「ぼけ封じ」、右下は「千寿七福神」、左下は「元宿神社」。
御由緒
当地は鎌倉街道が通り、千住宿成立以前から集落ができていたので、千住宿に対して元宿と称されたという。千住宿の設立に際し、元宿の人々24戸の内20戸は千住四丁目に移転した。
元宿神社は、古くは元宿八幡社と称した。甲斐国の武田氏に仕えていた鈴木因幡守貞宗の長男・蔵人は足立郡に移り住み、その子・鈴木左衛門尉信義が天正元年(1573)この土地を開墾した。翌2年(1574)村の東南に八幡社を、村の東北に稲荷社を祀ったのが起源である。両社の旧別当は真言宗の月松山長円寺(千住4)。
境内の足立区教育委員会による掲示によれば、明治末年(明治42年?)、八幡社は千住四丁目の氷川神社に合祀されたが、昭和5年(1930)稲荷社を合祀して村社となり、再び元宿の鎮守となったという。
『東京都神社名鑑』によれば、明治43年(1910)荒川放水路構築用地に稲荷社があったため、八幡社に合祀したとする。
昭和6年(1931)元宿が元町(翌年には千住元町)と改められたことにより、元宿の名を残すために、社号を元宿神社と改称。
境内にある「感旧碑」は、鈴木信義の子孫・鈴木与吉が大正5年(1921)に建立したもので、荒川放水路改作のため、先祖が苦心して開墾し、天明の飢饉や明治の洪水に遭っても守り続けた土地を離れざるをえない愛慕の情が記されている。
補足
上記の由緒で見ると、昭和5年(1930)に八幡神社(元宿八幡)が氷川神社から分祀されて独立、稲荷神社を合祀し、翌昭和6年(1931)元宿神社に改称されたということになるが、昭和6年の『南足立郡千住町現状調査』には元町の八幡神社あるいは元宿神社の名は見えない。
東京都公文書館の情報検索システムで調べると、「無格社 元宿神社(稲荷神社) 足立区千住元町(北鹿浜町)」というデータがあり、改称以前は稲荷神社であった可能性が高い。
また、元宿神社への改称について、このデータによれば昭和10年(1935)7月24日に名称変更が許可されたようである。千住元町(元宿)への遷座の時期についても「昭和10年4月19日移転許可」とある。
上記由緒が誤っているという可能性もあるが、昭和5年に非公認の神社として八幡神社を分祀・再興しており、昭和10年に稲荷神社を遷座・合祀するという形で公認の神社にした可能性もある。検討する必要があろう。
写真帖
メモ
住宅地の中の小さな神社。参拝は千寿七福神巡拝の一環としてで、御朱印は七福神の御朱印とともに町会の方たちが対応しており、千寿七福神の期間のみの授与ではないかと思われる。神社の御朱印が拝受できるとは思っていなかったため神社用の朱印帳を準備しておらず、やむなく七福神用の朱印帳にいただいた。
元宿神社の概要
名称 | 元宿神社 |
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旧称 | 八幡神社(元宿八幡社)/稲荷神社 |
御祭神 | 誉田別命〔ほんだわけのみこと〕 倉稲魂命〔うかのみたまのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都足立区千住元町33番4号 |
創建年代 | 天正2年(1574) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 9月15日 |
神事・行事 | 1月1日/元旦祭 2月3日/節分祭 6月30日/大祓式 12月30日/大祓式 ※『平成「祭」データ』による |
巡拝 | 千寿七福神(寿老人) |
交通アクセス
□JR常磐線・東京メトロ・東武伊勢崎線他「北千住駅」より徒歩約23分、またはバス
■都営バス王子駅前行き・駒込病院前行き「千住桜木」下車徒歩2分
■コミュニティバスはるかぜ6号「桜木町」下車徒歩2分
□京成本線「千住大橋駅」より徒歩約24分