太田神社は市野倉地域の鎮守で、古くは正八幡宮あるいは家運八幡宮と称した。明治初年に太田神社と改称する。那須与一の守本尊と伝えられる八幡大菩薩の御神像を祀り、「一願必中」の御神徳で信仰を集めている。
正式名称 | 太田神社〔おおた じんじゃ〕 |
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御祭神 | 誉田別命 〈配祀〉澳津彦神 澳津姫神 宇迦之御魂神 高龗神 |
社格等 | 旧無格社 |
鎮座地 | 東京都大田区中央6-3-24 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://yoichi.tokyo.jp/ |
御朱印
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(5)
(1)平成26年拝受の御朱印。上の印は三つ巴と一文字に十六葉菊の神紋。一文字に十六葉菊は那須氏の家紋である。三つ巴は八幡神社の神紋か。下は「太田神社」。右に「那須与一宗高公守本尊安置」。
(2)平成28年拝受の御朱印。印は平成26年のものと同じだが、神紋の印が金色になっている。
(3)平成30年拝受の御朱印。印は(2)と同じだが、例大祭時にいただいたからか、中央に「太田神社」の揮毫が入っている。
(4)平成30年拝受、例大祭の御朱印。下の印は扇の的を狙う那須与一に「太田神社」。上は扇と矢羽で、扇の的「一願必中」の御神徳を表しているものと思われる。
(5)令和4年拝受、太田神社に合祀されている竈神社の御朱印。書き置き。揮毫(印刷)は中央に「澳津彦神/澳津姫神/竈神社」、右に「市野倉鎮座」。台紙に彩雲と御幣、「太田神社」の印。
御由緒
御祭神
〈主祭神〉
■誉田別命
俗に八幡様と称する。御神体の八幡大菩薩像は源平合戦の扇の的で名高い那須与一の守本尊と伝えられる。那須与一の故事にあやかって「一願必中」の御神徳があり、願えば叶わぬことなしと信仰を集めている。
与一、目を塞いで、
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇の真中射させ給ばせ給へ。これを射損ずるものならば、弓切り折り、自害して、人に再び向かふべからず。今一度、本国へ向かへんと思し召さば、この矢外させ給ふな」
と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。
与一、鏑を取つてつがひ、よつ引いてひやうど放つ。小兵というぢやう、十二束三伏、弓は強し。浦響く程長鳴りして、過たず扇の要際一寸ばかりおいて、ひいふつと射切つたる。
〈配祀〉
■澳津彦神(竈神社)
■澳津姫神(竈神社)
■宇迦之御魂神(稲荷神社)
■高龗神(貴船神社)
明治45年(1912)に合祀された村内の竈神社・稲荷神社・貴船神社の御祭神。
由緒
太田神社は市野倉村(現在の大田区中央4~7丁目、池上1丁目、南馬込6丁目)の鎮守。
江戸時代以前は正八幡宮あるいは家運八幡宮と称し、別当は日蓮宗の覚応山長勝寺であった。「家運」の名の由来についてはわかっておらず、『新編武蔵風土記稿』にも「家運と号する故を詳にせず」とある。
創建年代は不明だが、『新編武蔵風土記稿』に記載されていることから、文政年間(1818~31)以前に鎮座していたことは間違いない。『池上町史』によれば天明3年(1783)氏子中により社殿が再建されたとあるので、さらに古く遡るだろうという。
八幡大菩薩の御神像は那須与一の守本尊と伝えられる。『池上町史』によれば代々那須家の子孫が参拝し、同書が編纂された昭和初期でも那須家の子孫と称する人が参拝しているのを見ることができたという。
明治初年の神仏分離により長勝寺から独立、太田神社と改称した。この時、那須与一の守本尊と言われる御神像は長勝寺に遷された。
「太田」の名の由来もわかっていないが、『北条家分限帳』の太田新六郎の所領に「六郷の内 一之倉(市野倉)蒲田分」とあり、当地の領主であった太田新六郎康資が氏神としていたことに因むという説がある。あるいは太田道潅が江戸城を築城した際、当地を候補地として検分したことによるという説もあるが、いずれも確証はない。
明治45年(1912)村内の無格社・竈神社、貴船神社、稲荷神社を合祀した。
昭和5年(1930)社殿を現在の位置に移転。昭和7年(1932)神楽殿を建立するが、昭和20年(1945)5月、空襲により社殿・神楽殿ともに焼失した。ただし長勝寺に遷されていた那須与一の守本尊は難を逃れた。
昭和28年(1953)現在の拝殿が再建される。さらに平成6年(1994)本殿が再建された。
貴船神社
明治45年(1912)に合祀された貴船神社は、『新編武蔵風土記稿』に元は村内の修験恵観院が別当であったが、長勝寺に替わったとある。しかし『池上町史』は元は池上本門寺の鬼門除けとして東之院(池上1-7-7)に建立されたものを後に長勝寺境内に遷し、同寺が別当として祀るようになったとしている。
那須与一公守本尊
参道脇に「八幡大菩薩像由緒碑」があり、那須与一公の守本尊とされる八幡大菩薩の神像の由来について詳しく書かれている。
この碑によれば、江戸時代、市野倉村の旧家・川島百太郎家の女性が奥女中として大奥の局に奉公していた。長年実直に勤め上げて暇乞いをした時、局から労をねぎらって八幡大菩薩の神像を下賜された。後に民家に祀ることを憚って正八幡宮(太田神社)に奉納した。そのため正八幡宮の本尊と誤って伝えられたという。
明治の神仏分離で太田神社と長勝寺が分かれた時、八幡大菩薩の神像は長勝寺に遷された。
ある時、御神像があまりにも古びたため、ある塗師に塗り替えを依頼した。ところが塗師が古い箔を落とし始めると、急に気分が悪くなって病床についてしまい、神像を住職に返すとたちまち治った。不思議に思った住職が像を調べると、背部に「那須與市宗高守本尊」と記されていたという。
太田神社の社殿は戦災で焼失したが、幸い御神像は長勝寺に安置されていたため難を逃れ、昭和22年(1947)頃、長勝寺の住職により太田神社に奉還された。
像は台座を含めて15.5cmで、背部の古い箔が落ちた部分に「正八幡宮」と「那須與市宗高」の墨書が確認できるという。
東京の与一くん
平成26年(2014)に誕生した市野倉のご当地キャラクター。お祭やイベントに登場してダンスを踊り、最後に「一願必中与一の矢」を射るのが恒例という。
写真帖
例大祭の様子
メモ
品川区の上神明天祖神社(蛇窪神社)の兼務社で、本務社同様、地域の活性化や御朱印などによる参拝者の増加などへの取り組みが伝わってくる神社。
初めての参拝は平成26年。神社の公式サイトでは池上駅もしくは大森駅を利用したアクセスを紹介しているが、都営浅草線西馬込駅から徒歩で向かった。住宅街の中を歩いて神社の裏側に出る形だが、池上駅からよりもやや近く、都心部からの参拝には便利だと思われる。御朱印は自分で朱印・スタンプを押す形で、宮守の女性が親切に対応してくださった。
平成30年、例祭の限定御朱印があることを知って三度目の参拝。例祭日の前日で、子ども神輿の渡御が始まるところだった。神事に続き、東京の与一くんが子どもたちとダンスをするところも拝見。神社と地域が深くつながっている様子を実感、子ども神輿の出発を見送ってから退去した。
太田神社の概要
名称 | 太田神社 |
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旧称 | 八幡社 家運八幡宮 |
御祭神 | 誉田別命〔ほんだわけのみこと〕 〈配祀〉 澳津彦神〔おきつひこのかみ〕(竈神社) 澳津姫神〔おきつひめのかみ〕(竈神社) 宇迦之御魂神〔うかのみたまのかみ〕(稲荷神社) 高龗神〔たかおかみのかみ〕(貴船神社) |
鎮座地 | 東京都大田区中央六丁目3番24号 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 旧無格社 |
例祭 | 5月15日直前の金・土・日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月最初の午の日/初午祭 6月下旬の日曜日/夏越大祓式 10月2日/貴船祭 12月30日/年越大祓式 |
交通アクセス
□都営浅草線「西馬込駅」より徒歩約15分
□東武池上線「池上駅」より徒歩約18分、またはバス
■東急バス品94・井03・井09・森04・森05・森07系統「池上営業所」下車徒歩約5分
□JR京浜東北線「大森駅」より徒歩約30分、またはバス
■東急バス品94・井03・井09・森04・森05・森06系統「池上営業所」下車徒歩約5分
更新履歴
2021.06.14.公開
2024.11.20.更新、御朱印を追加。