於玉稲荷神社は、神田お玉ヶ池の於玉稲荷大明神を勧請し、御分社として祀ったことにはじまる。お玉ヶ池の稲荷神社の由来は『江戸砂子』や『江戸名所図会』にも記されている。安政の大地震で神田にあった社が焼失したため、明治4年(1871)当社に遷宮し、御本社とした。
正式名称 | 於玉稲荷神社〔おたま いなりじんじゃ〕 |
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御祭神 | 倉稲魂命 |
社格等 | 旧無格社(?) |
鎮座地 | 東京都葛飾区新小岩4-21-6 [Mapion|googlemap] |
最寄り駅 | 新小岩(JR総武線) |
公式サイト | http://www.miduho.gr.jp/otamainari/ |
御朱印
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(1)平成17年拝受の御朱印。中央の朱印は「稲荷神社」。右上の印は「奉拝」、左下は「宮司之印」。
(2)平成30年拝受の御朱印。中央上の朱印は「於玉稲荷」。右上の印は「奉拝」、右下は社殿・御神木の銀杏と「小松の里(新小岩)於玉稲荷神社」、左下は「於玉稲荷神社社務所」。
御由緒
御祭神
■倉稲魂命
稲荷大神と称され、伊勢の外宮の御祭神である豊受大神と同神とされる。
御由緒
新小岩の於玉稲荷神社は、神田の於玉ヶ池にあった於玉稲荷大明神を当地に勧請したことを創祀とする。
於玉ヶ池の由来
お玉ヶ池の於玉稲荷大明神については、『江戸砂子』や『江戸名所図会』などにその由来が記されている。
その昔、現在の神田岩本町あたりに大きな池があり、桜の木がたくさんあったことから桜ヶ池と呼ばれていた。その傍に茶店があり、お玉という看板娘がいた。この地は奥州への街道が通っていたが、たいそうな美人で愛想もよかったため、旅人がわざわざ茶を飲みに立ち寄るほどであった。
中でも人柄も要望も優劣つけがたい二人の若者が彼女に心を通わせたのだが、お玉はどちらも選ぶことができず、悩んだ末に池に身を投げてしまった。里人はお玉を憐れんで池の畔に埋葬し、しるしとして柳を植えた。以来、池の名をお玉ヶ池と呼ぶようになったと伝えられる。
また、その傍らに社を建ててお玉の霊を弔ったのが於玉稲荷の起こりとされる。
長禄元年(1457)太田道潅が崇敬したのをはじめ、寛正元年(1461)足利義政が祈願、文禄4年(1595)伊達政宗が参詣したと伝えられる。また、明暦3年(1657)の大火の後に社を再建したともいう。
なお、江戸時代の初めには不忍池より大きかったというお玉ヶ池も、次第に埋め立てられて『江戸名所図会』が記された天保年間(1830~44)には於玉稲荷のそばに井戸のような形が残るだけであったと記されている。
ただし地名の通称としてはその後も残っていたようで、例えばこの辺りに道場を構えていた北辰一刀流の千葉周作は「お玉ヶ池の先生」と呼ばれていた。
小松の里の於玉稲荷
「小松の里」と呼ばれた当地は、徳川将軍の鷹狩りの地であった。
いつの頃か、この地に神田の於玉稲荷の御分社が勧請された。古地図に「おたまいなり」の名が見えるという。
安政2年(1855)江戸の大地震のためお玉ヶ池の於玉稲荷が焼失したため、明治4年(1871)当社に遷宮し、こちらを御本社とした。
なお、旧地である千代田区岩本町には繁栄お玉稲荷大明神が再興されている。
写真帖
メモ
JR新小岩駅から徒歩10分ほどの住宅地に鎮座する。鉄筋コンクリート朱塗りの拝殿・舞楽殿・神輿庫などを2階部分に設け、狭い境内を有効に活用している。拝殿前には御神木の願かけ銀杏がある。
初めての参拝の時は、宮司さんが葬儀から帰ってきたところということで、日を改めてもらいたいと言われた。初めての経験で、少々残念な気持ちもあったが、むしろ御朱印も神事の一環としてゆるがせにしない姿勢に感心した。後日参拝したときは、快く対応していただき、拝受したのが上の御朱印である。
於玉稲荷神社の概要
名称 | 於玉稲荷神社 |
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旧称 | 稲荷神社 |
御祭神 | 倉稲魂命〔うかのみたまのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都葛飾区新小岩四丁目21番6号 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 旧無格社(?) |
例祭 | 4月29日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月3日/交通安全祈願祭 1月30日/新春雅楽演奏会 2月節分/厄除祈願祭 2月初午/初午大祭 2月17日/祈年祭 6月30日/大祓式 仲秋/管弦祭 11月23日/新嘗祭 12月31日/大祓式 |
交通アクセス
□新小岩駅(JR総武線)より徒歩8分
更新情報
2006.01.29.公開
2017.06.26.改訂、WPに移行、画像追加。
2018.03.07.更新、御朱印を追加。