
寒川神社は相模国の一宮であり、延喜の制では相模国で唯一の名神大社に列している。古くから朝廷・部門の崇敬を受け、源頼朝は妻・政子の安産祈願のために奉幣している。また、北条氏綱や北条氏康は社殿を再興し、徳川家康は朱印地100石を寄進している。また、古くから八方除けの守護神として広く信仰を集めている。
正式名称 | 寒川神社〔さむかわじんじゃ〕 |
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御祭神 | 寒川比古命 寒川比女命 |
社格等 | 式内社(名神大) 相模国一宮 旧国幣中社 別表神社 |
鎮座地 | 神奈川県高座郡寒川町宮山3916 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | https://samukawajinjya.jp/ |

御朱印



(1)平成18年拝受の御朱印。揮毫は「奉拝/相模國一之宮寒川神社」。朱印は「相模國一之宮寒川神社」。
(2)平成27年拝受の御朱印。揮毫は「奉拝/相模國一之宮寒川神社」。朱印は「相模國一之宮寒川神社」だが、新しいものになっている。
(3)令和4年拝受の御朱印。揮毫と中央の朱印は(2)と同じ。右上に三つ巴の神紋と「八方除」、下にハマゴウを配す。ハマゴウは砂浜などに生える常緑小低木で、浜降祭の時、寒川神社の神輿を安置する場所にハマゴウの花を敷き詰める慣わしがある。
限定御朱印


(4)令和4年拝受、国府祭の御朱印。朱印は(2)と同じ。台紙には国府祭で奉納される「鷺の舞」が描かれている。毎年、国府祭の限定御朱印は、国府祭に参加する6社共通で授与されている。国府祭当日は現地で、当日以外は各神社で授与される。令和4年はコロナ禍で神職による神事のみが執り行われたため、各神社での授与のみであった。
(5)令和7年拝受、国府祭の御朱印。国府祭当日、神揃山の斎場で拝受したもの。台紙の図柄は国府祭の六所神社における「七度半迎神の儀」と「道清め」の様子。




(6)文政4年(1821)の納経(御朱印)。揮毫は「奉納経/相州一宮/別當所/寒川之神社/執事」。中央の朱印は火炎宝珠に梵字の「ア」。右上の印は「相州大社」、左下は「佛法僧寶」。「別当所」とあるので、寒川神社の別当であった薬王寺(廃寺)で対応したもののようである。
(7)明治16年(1883)の御朱印。揮毫は「相模囶一之宮/國幣中社寒川神社/社務所」。中央の朱印は「寒川大神御璽」、左下の印は「相模囶寒川神社之印」。
(8)時期不詳、大正末から昭和初期のものと思われる御朱印。中央の朱印は「國幣中社寒川神社印」、上の印は「相州一宮」。
(9)昭和18年(1943)の御朱印。朱印は(8)と同じ「國幣中社寒川神社印」。
寒川神社について

御祭神
■寒川比古命
■寒川比女命
二柱の神を総称して寒川大明神と唱える。相模国を中心に広く関東地方を開拓し、衣食住など人間生活の根源を開発指導されたという。古来より関八州の守護神、江戸の裏鬼門の鎮護として崇敬され、八方除・方位除の神として信仰を集めるという。
寒川比古命・寒川比女命は記紀に現れる神ではないが、『皇大神宮儀式帳』に牟弥乃神社の御祭神として「大水上児〔おおみなかみのみこ〕寒川比古命、寒川比女命」と記されている。
近世以降、寒川神社の御祭神については八幡(一宮記、諸社根元記、神社覈録他)、菊理媛(惣国風土記)、沢女神(神名帳考証、神名帳注釈)、素盞嗚尊・稲田姫命(旧神祠記、一宮巡詣記)など諸説あった。
明治7年(1874)の『特選神名牒』は新たに伊勢皇大神宮の末社・牟弥乃〔むみの〕神社の御祭神である寒川比古命・寒川比咩命とする説を主張した。明治9年(1876)教部省が編纂した『官社祭神考証』はこの説を採用し、寒川比古命・寒川比女命の二座とした。
その後、神社明細帳を作成するに当たり、『延喜式神名帳』では一座とされていることから、寒川比古命を主祭神、寒川比女命及び旧説で祭神とされた菊理媛命、足仲彦命、誉田別命を配祀神としたが、大正5年(1916)内務省通牒により改めて寒川比古命・寒川比女命の二座とされた。
御由緒

寒川神社の創建については詳らかではないが、『日本惣国風土記』によれば雄略天皇16年(472)初めて朝廷より奉幣があったとされる。社伝によれば神亀4年(727)あるいは天平神護元年(765)社伝が建立されたという。
承和13年(846)従五位下を授けられ、以降、斉衡元年(854)従四位下、貞観11年(869)従四位上、元慶8年(884)には正四位下に進められる。延喜の制では相模国で唯一の名神大社に列する。また、中世には相模国の一宮とされた。
源頼朝が鎌倉を本拠地としてより武門の篤い崇敬を受けた。寿永元年(1182)8月11日、頼朝は頼家の誕生に際して安産を祈願し、同13日には誕生の祝儀として神馬を奉納している。また、建久3年(1192)実朝の出産に際しても誦経させている。また、北条政子、北条義時、北条重時らもたびたび社参、奉幣したという。
大永2年(1522)北条氏綱が社殿を造営、天文15年(1546)には北条氏康も社殿を再興した。しかし永禄12年(1569)武田信玄の小田原攻めに際して兵火にかかり、天正6年(1578)社僧らにより再建された。
なお、神奈川県の文化財に指定されている「六十二間筋兜鉢」は、武田信玄が小田原攻めの戦勝を祈願して奉納したと伝えられる。
天正19年(1591)徳川家康は先例により社領100石を寄進。正保3年(1646)当地の知行主となった旗本の杉浦正友が社殿を修復した。
寒川神社の別当は古義真言宗の寒川山薬王寺(廃寺)であったが、古くは岡田村(寒川町岡田)の大塚山安楽寺が別当を勤めていたという。薬王寺は承和元年(834)安楽寺法印快便の創建と伝えられる。他に供僧として神照寺・西善院・中之坊・三大坊があり、社家として神主金子氏をはじめ33家が奉仕していたという。
明治2年(1869)神仏分離により別当薬王寺は復飾して神主となり、供僧神照寺も復飾して神官となった。西善院は神社を離れ、薬王寺・神照寺の檀家を兼摂した。中之坊・三大坊は廃寺となった。
明治4年(1871)国幣中社に列格。
明治27年(1894)神明造の本殿を造営。これに伴い、寛保元年(1741)造営とされる旧本殿は倉見神社(寒川町倉見)に譲渡された。因みに倉見神社には平成の御造営の際にも昭和2年(1927)造営の旧拝殿が譲与されている。

大正12年(1923)関東大震災により、社殿をはじめとして大きな被害を受けた。大正14年(1925)年より復旧工事が行われ、大正15年(1926)本殿、昭和2年(1927)に幣殿・拝殿等が復興された。
現在の社殿は平成9年(1997)に造営されたものである。
宮山神社

宮山神社は宮山村各所にあった寒川神社の境内外末社を合祀したものである。御祭神は大物主神(琴平社)、須佐之男神(八剱社)、武御雷之男神(雷社)、大雀命(若宮八幡社)、聖神(禰岐志社)、宇迦之御魂神(稲荷社)、伊邪那岐命・伊邪那美命(三峰社)。
明治41年(1908)境外末社・琴平社に同じく境外末社の雷社・若宮八幡社・禰岐志神社・八剱神社を合祀。大正3年(1914)琴平社を現社地に移転新築するとともに境外末社・稲荷神社を合祀、宮山神社と改称した。
大正12年(1923)関東大震災で社殿が被害を受け、昭和5年(1930)に再建された。
昭和44年(1969)三峰社が合祀された。
当社に白豆腐を供えると母乳に恵まれるという信仰がある。家運隆昌・家内安全・無病息災・商売繁盛・五穀豊穣として信仰を集めている。
八方除
八方除とは、「地相・家相・方位・日柄などに起因するすべての禍事・災難を取り除き、家業繁栄・福徳円満をもたらす寒川大明神の全国唯一の御神徳」とされる(公式サイト)。
寒川神社は古くから八方除の守護神として信仰を集めたという。昭和8年(1933)頃の俳諧歳時記にも「寒川の八方除札」が見え、昭和9年(1934)の『新修百科辞典』には「八方除の神として有名」とある。
特に戦後は八方除信仰を中心とした御神徳の宣揚に努めているという。
特殊神事

■田打舞(2月17日)
五穀豊穣を祈る神事で、田打ちから稲刈りまでの農作業を形容した舞を舞う。
古くは1月15日に田端村(寒川町田端)の斎藤土佐という家のものによって奉仕されていたが、明治維新以後に廃絶したと伝えられる。
明治21年(1888)斎藤家より同家に伝わる翁の面が奉納され、田打舞が再興されたが、明治27年(1894)再度中絶する。大正12年(1923)再び復興され、2月17日の祈年祭に引き続いて行われるようになった。
■国府祭(5月5日)
端午祭とも称し、かつて相模の国衙が置かれた中郡大磯町国府本郷の神揃山と麓の大矢場の祭場に一宮寒川神社、二宮川勾神社、三宮比々多神社、四宮前鳥神社、一国一社八幡宮・平塚八幡宮の神輿が集まり、総社・六所神社に御分霊を奉納する神事を行う。
特に神揃山で行われる寒川神社と川勾神社の神職が上座を争う座問答が名高い。一宮・寒川神社の神職が虎の皮を敷いて座を取ると、二宮・川勾神社の神職がより上の場所に虎の皮を敷いて座を取る。これを三度ずつ繰り返すと、三宮・比々多神社の神職が「いずれ明年まで」と仲裁する。往古、相武(さがむ)と磯長(しなが)の国を合わせて相模国が成立した時、相武の一宮の寒川神社と磯長の一宮の川勾神社の間で国の主神が争われた時の模様を儀式化したものとされる。
■浜降祭(7月海の日)
寒川神社を中心とする寒川町・茅ヶ崎市鎮座の神社の神輿が南湖の浜(茅ヶ崎市西浜海岸)に集まり、海中に入って禊を行う。湘南地方随一の夏の祭典として知られる。
その起源については、次のような伝承がある。天保9年(1838)国府祭に渡御した寒川神社の神輿が、帰途、相模川の渡し場で前鳥神社の氏子と争いになり、川に落ちて行方不明となった。数日後、南湖村(茅ヶ崎市南湖)網元である鈴木孫七が漁の最中に御神体を発見し、寒川神社に届けた。これを契機として、寒川神社の神輿がお礼のために南湖の浜に赴き、禊をするようになったという。
これとは別に、浜之郷村(茅ヶ崎市浜之郷)の佐塚明神(鶴嶺八幡宮と並んで鎮座して「両社」と称し、後に合祀された)では古くより6月29日に浜辺に渡御し、禊を行っていた。
明治9年(1876)両社合同の神事として7月15日に行われることになり、「浜降祭」と称するようになった。その後別々に行われた時期もあったが、大正12年(1923)頃より再び合同で行われるようになったという。昭和初期には十数社の神輿が参加していたが、戦後参加する神社が増え、現在は40基近い神輿が参加するようになっている。
写真帖

社頭風景。三の鳥居と神池橋(太鼓橋)。因みにこの手前に約800mに及ぶ参道があり、入口に一の鳥居、途中に二の鳥居がある。

社号標。太鼓橋に向かって右側にある。「相模國一之宮 國幣中社寒川神社」。

神池橋(太鼓橋)。旧太鼓橋の老朽化により、平成23年(2011)架け替えられた白御影石の太鼓橋で、公募により「新地橋」と名付けられた。

掛け替え前の旧太鼓橋、平成18年参拝時に撮影。関東大震災で甚大な被害を受けた本石造の太鼓橋に替えて架けられた鉄筋コンクリート造の橋。

三の鳥居。平成2年(1990)皇紀2650年記念事業として建て直された檜造りの明神鳥居。

神池。

「重修寒川神社太鼓橋記」碑。明治24年(1891)に始められた神域整備事業の一環として再建された本石造の太鼓橋が完成したことを記念して建てられたもの。題字の篆額は有栖川宮熾仁親王の御染筆。

末社・宮山神社の鳥居と社号標。

末社・宮山神社の社殿。

平和塔「和光」。昭和40年(1965)宮山地区の住民によって、寒川神社神鹿苑内に建立された。平成21年(2009)神鹿苑の整備に伴い当地に移設された。

旧一の鳥居。寛政8年(1796)に建立され、安政2年(1855)の安政江戸地震、大正12年(1923)の関東大震災と2度の地震で倒壊した。

手水舎。平成3年(1991)造営。

昭和天皇御製碑。刻まれているのは終戦直後、昭和21年(1946)の歌会始で昭和天皇が詠まれた御製「ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ」。

神門。平成5年(1993)に造営された重層の門。

神門前の狛犬。

社務所前にある南門。昭和4年(1929)に再建された旧神門が移築されている。

南門前の狛犬。

平成9年(1997)に造営された総檜造りの拝殿。

御神木。拝殿前の2本の杉で、御祭神の寒川比古命・寒川比女命が宿ると伝えられる。

渾天儀(レプリカ)。本来は天体観測の器具であるが、星は国家の運命をも握ると考えられてきたことから、天体観測によって暦が作られ、日々の吉凶が占われた。この渾天儀は、龍は天空を支えるという故事に因み、四隅に龍が配されている。なお、寒川神社には「からくり半蔵」として知られる細川半蔵が作成した渾天儀が所蔵されている。

本殿。
メモ
相模川東側の小高い台地に鎮座する。神門をくぐると、平成9年(1997)竣工の社殿を中心とした清浄で荘厳な空間が広がる。
八方除の信仰で知られる。著名人の参拝が多く、元首相の佐藤栄作氏も都内の市場に店を持っていた知り合いの社長も、毎年八方除の御祈禱を受けていた。日本一昇殿参拝者が多い神社としても知られているという。
初めての参拝は平成18年9月の日曜日。一日で相模六社を公共交通機関で回る計画だったため、かなり早い時間に参拝したのだが、すでに昇殿参拝のために訪れている人がいた。車のナンバーもいろいろで、広く信仰を集めていることを実感した。
寒川神社の概要
名称 | 寒川神社 |
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旧称 | 寒川大明神 一宮佐河大明神 |
御祭神 | 寒川比古命〔さむかわひこのみこと〕 寒川比女命〔さむかわひめのみこと〕 |
鎮座地 | 神奈川県高座郡寒川町宮山3916番地 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 式内名神大社 相模国一宮 旧国幣中社 別表神社 |
延喜式 | 高座郡 寒川神社 名神大 |
例祭 | 9日20月(通称) |
神事・行事 | 1月1日/元旦祈禱祭・八方除祭・歳旦祭 1月2日/追儺祭 1月3日/元始祭 1月8日/武佐弓祭 2月節分の日/節分祭 2月11日/紀元祭 2月17日/祈年祭・田打舞神事 3月春分の日/末社御祖神社 春季霊祭・合祀祭 4月第1土・日曜日/年参講大祭 5月5日/国府祭 6月30日/水無月大祓式・茅の輪神事・大祓祈願祭 7月15日/古式浜降祭 7月海の日/浜降祭 7月浜降祭翌日/虫送り祭 8月15日/相模薪能・平和祈願祭 9月19日/例祭宵宮祭・流鏑馬神事 9月秋分の日/末社御祖神社 秋季霊祭・合祀祭 9月29日/末社宮山神社例祭 10月15日/人形感謝祭 10月17日/神嘗奉祝祭 11月15日/七五三祭 11月23日/新嘗祭 12月14日/煤払祭 12月31日/師走大祓式・大祓祈願祭・除夜祭 |
文化財 | 〈県指定文化財〉六十二間筋兜鉢・附金具残闕三種 〈県指定無形文化財〉国府祭 浜降祭 |
交通アクセス
□JR相模線「宮山駅」より徒歩約5分
参考資料
・寒川神社公式サイト・由緒書
・『寒川神社志』寒川神社(昭和7年)
・『寒川巡り』寒川神社復興奉祝会(昭和3年)
・大日本地誌大系第38巻『新編相模国風土記稿』(昭和8年)
・『俳諧歳時記 新年』山本三生(昭和8年)
・『新修百科辞典』三省堂百科辞書編輯部(昭和9年)
・『神奈川県神社誌概説』佐藤善治郎(昭和10年)
・日本歴史地名大系『神奈川県の歴史』
・『国史大辞典』国史大辞典編集委員会
・Wikipedia
更新履歴
2007.03.12.公開
2008.07.09.更新、画像を追加
2010.12.30.更新、画像を追加
2025.06.16.改訂、御朱印と画像を追加
