第64番 石鈇山 前神寺

64番前神寺

名称 石鈇山 金色院 前神寺
御本尊 阿弥陀如来
所在地 愛媛県西条市洲之内甲1426 [Mapion|googlemap]

【本尊真言】
おん あみりた ていせい からうん

【御詠歌】
前は神後は仏極楽の よろずの罪をくだくいしづち

【略縁起】
西日本最高峰・石鎚山の旧別当。寺伝によれば、石鎚山で苦行を重ねた役行者が蔵王権現を感得し、その尊像を刻んで奉安したことに始まるという。『聾瞽指帰』には若き日の弘法大師が石鎚山で修行したことが記されている。元は石鎚山中腹の常住(現在の石鎚神社成就社)にあったが、山麓の橘郷に里坊を設け、里前神寺と称した。明治の神仏分離で石鎚神社となり、前神寺は廃寺とされたが、明治11年(1878)前上寺として再興、同22年(1889)前神寺の旧号に復した。

前神寺の納経(御朱印)

  • 前神寺の納経

    (1)

  • 64番前神寺の納経

    (2)

(1)平成元年拝受の納経。揮毫は阿弥陀如来の種字「キリーク」に「阿弥陀如来」。中央の宝印は蓮台上の火炎宝珠に種字「キリーク」。右上の印は「第六十四番」、左下は「伊予国石鈇山前神寺」。

(2)平成18年にいただいた納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。

江戸時代の納経

  • 天保11年の納経

    (1)

  • 天保12年の納経

    (2)

(1)天保11年(1840)の納経。版木押しで「四国霊場六十四番」「石鈇山大悲蔵王権現」「別当前神密寺」。朱印はなく、左下に「南海層峯」と思われる黒印がある。

(2)天保12年(1841)の納経。版木・黒印ともに天保11年のものと同じ。

明治時代の納経

  • 明治38年の納経

    (1)

(1)明治38年(1905)の納経。版木押しで「四国霊場第六十四番」「本尊阿弥陀如来」「東豫石鈇山前神寺」。東豫=東予は東伊豫で愛媛県東部のこと。朱印はなく、江戸時代と同じく左下に「南海層峯」の黒印がある。

前神寺について

山号 石鈇山(いしづちざん)
寺号 前神寺(まえがみじ)
院号 金色院(こんじきいん)
旧称 里前神寺 前上寺
御本尊 阿弥陀如来
所在地 愛媛県西条市洲之内甲1426番地
創建年代 天武天皇5年(676)
開山 役行者神変大菩薩
宗派等 真言宗石鈇派 総本山

覚え書き

西日本最高峰・石鎚山の旧別当で、第二次大戦後は御室派から独立して真言宗石鈇派の総本山となっている。
寺伝によれば、神変大菩薩・役小角の開創とされる。石鎚山頂で苦行を重ねた役行者は蔵王権現を感得し、その尊像を刻んで奉安した。その後、寂仙・上仙・光定などが石鎚山で修行したと伝えられる。『日本霊異記』によれば、嵯峨天皇は寂仙菩薩の生まれ変わりという。また、若き日の弘法大師が石鎚山で修行したことは、大師自筆の『聾瞽指帰』の自注により確認できる。
延暦年間(782~806)桓武天皇の病気平癒を祈願して霊験があったことから勅願所となり、七堂伽藍を建立して「金色院前神寺」の号を賜った。その後も文徳・高倉・後鳥羽・順徳・後醍醐帝など、歴代天皇の帰依を受けた。
伊予国守護の河野氏をはじめ武門の崇敬も篤く、歴代西条藩主も深く帰依した。西条藩松平氏は紀州徳川家の分家であったため、紀州藩主から将軍となった徳川吉宗をはじめとする歴代将軍の祈祷も命じられた。また、松平氏は境内に東照宮(現・西條神社)を祀り、三つ葉葵の紋の使用を許した。
もともと寺は常住(現・石鎚神社成就社)にあった。石鎚山そのものが札所で、常住の前神寺(現在の石鎚神社成就社)が納経・管理を司っていたが、石鎚山への入山期間が限られているため(当時は6月1日~3日)、それ以外の期間は常住を遙拝所として参拝したのであろう。
澄禅の『四国遍路日記』等には、石鎚山へは6月1日から3日までしか上れないので、それ以外は横峰寺で札を納めるとある。しかし、常住という地名から考えて、前神寺までは通年参拝が許されていたはずである。とはいえ常住は標高約1450m、四国八十八ヶ所でもっとも高所にある雲辺寺よりさらに500mも高いところにある。そのため、横峰寺からの遙拝で済ます巡礼者も多かったのであろう。
これに対し、前神寺は橘郷里坊を建立し、里前神寺と称した(現在の石鎚神社)。『四国辺路道指南』などでは常住の石鎚山金色院奥前神寺を本札所、里前神寺を前札所としている。なお、石鎚神社(旧里前神寺)から石鎚山が見えないことを疑問視する論を見かけることがあるが、これは遙拝所ではなく登山口であることによる。石鎚神社に行けばわかるが、祖霊殿(旧本殿)の前に登山口の鳥居がある。
江戸時代には横峰寺と別当を争った。もともと石鎚山の別当は前神寺が専称していたが、享保14年(1829)横峰寺が石鈇山横峰寺別当という印を使ったことをきっかけに、前神寺と横峰寺が石鎚山の別当職を巡って争うことになった。さらに奥前神寺の地所を巡る、西条藩領大保木村(前神寺側)と小松藩領千束山村(横峰寺側)の境界争いも絡み、江戸表で争うに至った。
文政8年(1825)幕府の裁決があり、石鎚山の別当は前神寺、横峰寺は仏光山石鈇社(横峰寺境内の蔵王権現社)の別当とされた。また、奥前神寺の地所は千束山村、建物は前神寺の管理とするが常住社と称することなどが定められた。これに伴い、里前神寺を前神寺と称するようになった。
奥前神寺の地所と管理権が争われているということから、前神寺の寺としての機能が完全に里前神寺に移っていたことがわかるが、前神寺側ではあくまで奥前神寺を本寺とし、里前神寺は里坊という位置づけにしていた。そのため、文化・文政頃までの納経帳には「別当前神密寺里寺納経所」とあるが、天保以降は「別当前神密寺」としている。
石鎚修験の中心として各地の先達を統括し、寺運は繁栄するが、明治の神仏分霊により明治3年(1869)石鎚神社とされた。住職は抵抗したものの、同8年(1875)正式に廃寺となった。
その後、檀家などの願い出により明治12年(1879)末寺・医王院に本尊と石鎚大権現を遷し、前上寺として再興(神の字を用いることは許されなかった)。さらに同22年(1889)前神寺の旧称に復した。
昭和28年(1953)御室派から独立して真言宗石鈇派を創設、石鈇修験道の根本道場として法灯を守っている。
前神寺の奥之院は成就の奥前神寺である。

写真帖

  • 大師堂

    大師堂

  • 御瀧不動尊

    御瀧不動尊

  • 薬師堂

    薬師堂

  • 本堂

    本堂

  • 石鈇権現堂

    石鈇権現堂

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