鹽竈神社(塩竃神社)は、古くから東北鎮護・陸奥国一宮として朝野の深い崇敬を受け、江戸時代には仙台藩主伊達氏が大神主を務めた。志波彦神社は、元は宮城郡岩切(現在の仙台市宮城野区)に鎮座し、延喜式では名神大社に列したが、中世以降衰微した。明治4年(1871)国幣中社に列格したが、社地が狭小であったため同7年(1874)鹽竈神社内に遷座した。
正式名称 | 志波彦神社・鹽竈神社〔しわひこじんじゃ・しおがまじんじゃ〕 |
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御祭神 | 〈志波彦神社〉 志波彦神 〈鹽竈神社〉 塩土老翁神 武甕槌神 経津主神 |
社格等 | 志波彦神社:式内社(名神大) 旧国幣中社 別表神社 鹽竈神社:陸奥国一宮 旧国幣中社 別表神社 式外社 |
鎮座地 | 宮城県塩竃市一森山1-1 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.shiogamajinja.jp/ |
御朱印
末社の御朱印
(1)境外末社・御釜神社の御朱印、平成19年拝受。朱印は「御釜神社」。
昔の御朱印
(1)昭和9年の御朱印。右上の朱印は「志波彦神社 参拝記念」、左下は「鹽竈神社 参拝記念」。
(2)昭和15年、皇紀二千六百年記念の御朱印。上の朱印は「鹽竈神社」「皇紀二千六百年 参拝」、下は「志波彦神社」「皇紀二千六百年 参拝」。
(3)昭和16年の御朱印。上の朱印は「志波彦神社参拝」、下は「鹽竈神社参拝」。
※昭和17年発行の『惟神の礎』には、これらの印ではなく、現在の朱印とほぼ同じものが掲載されている。
御由緒
同一境内に陸奥国一宮で旧国幣中社の鹽竈神社と、同じく旧国幣中社で式内名神大社の志波彦神社が鎮座する。
鹽竈神社
鹽竈神社(塩竃神社)は、陸奥国一宮で東北鎮護を称する。海上安全・漁業・製塩・安産の神として広く信仰を集め、各地に御分霊が勧請されている。
創建については詳らかではない。武甕槌神と経津主神が東北を平定した際、その道案内をしてきた塩土老翁神が当地に留まり、人々に塩作りを教えたことに始まるとされる。
最初に当地の地主神として塩竃神が祀られ、その後、蝦夷の人々に対して武威を示し、国土を開拓する神として鹿島神宮の武甕槌神と香取神宮の経津主神が祀られたのであろうという。
文献上の初見は『弘仁式』主税帳とされる。延喜式において神名帳には記載されていないが、主税寮式には「鹽竈神を祭る料一万束」とある。
当時、他に祭祀料を寄進されていたのは、伊豆国の三島社(三嶋大社)2千束、出羽国の月山大物忌社(月山神社・鳥海山大物忌神社)2千束、淡路国の大和大国魂社800束の3社のみであった。当社の1万束は破格の祭祀料であり、朝廷から格別の崇敬を受けていたことがわかる。
中世以来歴代領主の崇敬も極めて篤かった。左右宮の前には藤原忠衡(藤原秀衡の三男)が奉納した文治灯籠がある。鎌倉時代以降は領主の留守氏が大神主を務めた。
仙台藩主の伊達氏も深く尊崇し、歴代藩主は大神主として祭祀を司った。元禄4年(1691)には正一位に極位した。現在の社殿は元禄8年(1695)四代藩主・伊達綱村により造営が始まり、宝永元年(1704)に完成したものである。この時から二十年に一度の式年遷宮の制度が定められた。
また、綱村は当時諸説あった当社の御祭神について研究させ、現在の三神に確定させている。
因みに、東京・新橋の鹽竈神社は、元禄8年に綱村が汐留の仙台藩上屋敷に鹽竈神社の御分霊を勧請したことに始まり、安政3年(1856)中屋敷に遷座したものである。
明治の神仏分離により、旧別当の法蓮寺が廃され、境内から仏教色が取り除かれた。明治7年(1874)国幣中社・志波彦神社が当社の別宮に遷祀され、当社も国幣中社に昇格した。
志波彦神社
志波彦神社は、元は宮城郡岩切村(現・仙台市宮城野区岩切)の七北田川(冠川)の畔に鎮座していた。
旧鎮座地は、多賀城への交通の要所であった。冠川の名については、志波彦神がこの川の上流に降臨したことから「神降川」と呼ばれ、それが訛って冠川になったという伝承がある。
古くより朝廷の崇敬を受け、貞観元年(859)には正五位下勲四等に叙された。延喜式では名神大社に列する。しかし中世以降次第に社運衰退し、江戸時代には冠川明神・志波道上宮と呼ばれる小祠となっていた。
明治4年(1871)国幣中社に列格するが、社地が狭く官祭を執行することができないため、同7年(1874)明治天皇の勅により鹽竈神社別宮に遷された。さらに昭和13年(1938)国費によって現在の社殿の造営が成り、9月29日に遷座した。
写真帖
鹽竈神社
志波彦神社
見どころ
■石鳥居
表参道(表坂)の前に立つ石鳥居は、寛文3年(1663)の建立。この鳥居をフレームとして、表参道の石段と随神門を収めるのが撮影ポイントとのこと。
■鹽竈桜
サトザクラ系の八重桜で、淡紅色の大輪の花が短い花軸に群生する。昭和15年(1940)に国の天然記念物に指定されるが、高齢木であったため枯死してしまい、昭和34年(1959)指定解除された。しかし、枯死直前に接ぎ木し、鹽竈桜保存会によって苗木が育成された。苗木は鹽竈神社境内に植えられ、昭和62年(1987)再度天然記念物に指定された。
■文治燈籠
文治3年(1187)藤原秀衡の三男・和泉三郎忠衡によって寄進された鉄の燈籠。松尾芭蕉の『奥の細道』にも記されている。
■文化燈籠
文化6年(1809)9代藩主・周宗が、蝦夷地警護の凱旋の後に奉賽として寄進した銅鉄合製の燈籠。
■日時計
長崎・出島の商館長が作らせ、商館の庭に設置した日時計を、林子平が模造したもののレプリカ。実物は鹽竈神社博物館にある。林子平はロシアの脅威を説き、『海国兵談』『三国通覧図説』などを著したことで知られ、高山彦九郎・蒲生君平とともに寛政の三奇人に数えられる。
■鹽竈神社社殿
国の重要文化財。元禄8年(1695)4代藩主・伊達綱村が着工し、宝永元年(1704)5代藩主・吉村の時に完成した。正面の左宮・右宮は、それぞれの本殿と共通の拝殿を持つ。右手には別宮の拝殿と本殿がある。左右宮・別宮の本殿は同型で、素木造りの三間社流造で檜皮葺。左右宮の拝殿は桁行七間・梁間4間の入母屋造で、屋根は銅板葺。別宮の拝殿は桁行5間、梁間3間の銅板葺入母屋造。雄大な元禄時代の建築である。
メモ
初めて鹽竈神社を見たのは、団体旅行で松島に向かう途中。バスの中から表参道を眺めたのみだった。実際にしたのは、それから10年あまり後のことである。
塩釜駅から表参道まで歩き、境内をゆっくり参拝、その後、境外末社の御釜神社に参拝した。
志波彦神社・鹽竈神社の概要
鹽竈神社
名称 | 鹽竈神社 |
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御祭神 | 〈別宮〉 塩土老翁神〔しおつちのおじのかみ〕 〈左宮〉 武甕槌神〔たけみかづちのかみ〕 〈右宮〉 経津主神〔ふつぬしのかみ〕 |
鎮座地 | 宮城県塩竃市一森山1番1号 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 陸奥国一宮 旧国幣中社 別表神社 式外社 |
延喜式 | 祭鹽竈神料一万束(主税上・出挙本稲条) |
例祭 | 7月10日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月3日/元始祭 1月14日/松明祭(どんと祭) 2月立春前日/節分祭 2月11日/紀元祭 2月17日/祈年祭 3月10日/帆手祭 3月29日/志波彦神社例祭 4月第4日曜日/花まつり 4月29日/昭和祭 5月中/御神田 御田植祭 6月30日/大祓式 7月4日~6日/藻塩焼神事 7月第2日曜日/流鏑馬神事 7月第3日曜日/みなと祭 9月29日/志波彦神社遷座記念祭 10月5日/献茶祭 10月第2月曜日を含む土・日・月/鹽竈神社講社大祭 10月17日/神嘗奉祝祭 10月中/御神田抜穂祭 12月1日/嘉津良比祭 12月31日/大祓式・除夜祭 |
文化財 | 〈重要文化財〉太刀(銘:来国光) 太刀(銘:雲生) 鹽竈神社(左宮本殿・左宮幣殿・右宮本殿・右宮幣殿・左右宮廻廊・左右宮瑞籬・左右宮拝殿・別宮本殿・別宮幣殿・別宮廻廊・別宮瑞籬・別宮拝殿・門及び廻廊・随神門・石鳥居)〈天然記念物〉鹽竈桜 〈県有形文化財〉伊達家歴代藩主奉納糸巻太刀三十五振 〈県有形民俗文化財〉カマ神(竈神面)〈県無形民俗文化財〉藻塩焼神事(御釜神社)〈県天然記念物〉多羅葉樹 |
志波彦神社
名称 | 志波彦神社 |
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旧称 | 冠川明神 志波道上宮 |
御祭神 | 志波彦神〔しわひこのかみ〕 |
鎮座地 | 宮城県塩竃市一森山1番1号 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 式内社(名神大) 旧国幣中社 別表神社 |
延喜式 | 陸奥國宮城郡 志波彦神社 名神大 |
例祭 | 3月29日 |
神事・行事 | 9月29日/遷座記念祭 |
交通アクセス
□JR仙石線「本塩釜駅」より東参道まで徒歩約7分、表参道まで約14分
□JR東北本線「塩釜駅」より表参道まで徒歩約13分