上神明天祖神社は荏原郡上蛇窪村の鎮守。元亨2年(1322)武蔵国が大干魃に襲われた際、大森厳正寺の法密上人が雨乞いのため断食祈祷を行ったところ、大雨が降って危難を免れることができた。その神恩に感謝して勧請されたと伝えられる。正保年間1645~48)蛇窪村が上下に分かれた際、鎮守の神明社も当社と下神明天祖神社に分立したという。
正式名称 | 天祖神社〔てんそじんじゃ〕 |
---|---|
通称 | 上神明天祖神社 |
御祭神 | 天照大御神 〈相殿〉天児屋根命 応神天皇 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都品川区二葉4-4-12 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://hebikubo.jp/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。朱印は「天祖神社」、揮毫は「上神明天祖神社」。
(2)平成23年拝受の御朱印。中央の朱印は「天祖神社」、左下は三つ巴の神紋。揮毫は「上神明天祖神社」、左に「蛇窪鎮座」。
(3)平成26年拝受の御朱印。朱印は従来のものと同じ「天祖神社」。
(4)平成28年拝受の御朱印。中央上の朱印が雨龍に七つ蛇の目の神紋になった。下の朱印は「天祖神社」。
(5)蛇窪大明神の御朱印(通年)、平成26年拝受。中央上の朱印は八稜鏡に「上神明天祖神社」。下に神社創建の伝承に因む白蛇と蛇窪龍神の印。
荏原七福神の御朱印
(1)荏原七福神・弁財天の御朱印、平成23年拝受。中央上の朱印は「天祖神社」、左に「開運招福」。揮毫は「上神明天祖神社」「弁財天」。
(2)荏原七福神・弁財天のスタンプ、平成23年拝受。
(3)荏原七福神・弁財天の御朱印、平成27年拝受。朱印は弁財天と琵琶(スタンプと同じもの)、揮毫は「厳島弁財天大神」。
蛇窪大明神の期間限定御朱印
(1)蛇窪大明神、1月限定御朱印、平成27年拝受。正月を祝い、白蛇と龍神の印が金銀になる。
(2)4月限定の御朱印、平成27年拝受。弁財天社を彩る八重桜と枝垂桜に因むピンク。
(3)9月限定の御朱印、平成26年拝受。神社創建にまつわる雨乞いの断食祈願に因む水色。
限定御朱印
(1)夏越の大祓限定授与の御朱印、平成28年拝受。上の印は緑の茅の輪、下の朱印は「天祖神社」。揮毫(印判)は「蘇民将来子孫家門」で、伊勢の松下社が授与する注連縄に書かれているもの。
(2)平成28年夏詣で授与された御朱印。通年の御朱印に水色で「夏詣」の添印。
(3)蛇窪龍神祭の限定御朱印、平成28年拝受。蛇窪大明神の通年の御朱印に「蛇窪龍神祭」の添印。
(4)己巳の日の御朱印、平成28年8月拝受。金文字で「つちのえ 巳の日」、下に「白蛇弁天社」の朱印と揮毫。左の「開運招福」の印は順次色を変えているようだ。
(5)己巳の日の蛇窪大明神の御朱印、平成28年8月拝受。通年の御朱印に金文字で「つちのと 巳の日」。
(6)例大祭(蛇窪祭)の御朱印。朱印は従来用いていた「天祖神社」の印。揮毫(印判)は「蛇窪祭」。
御由緒
上神明天祖神社は荏原郡上蛇窪村の鎮守で、江戸時代までは神明社と称した。別当は馬込村の海岳山長遠寺(大田区南馬込)であった。
もともと上蛇窪村(上神明)と下蛇窪村(下神明)は一体で蛇窪村と呼ばれていた。正保年間(1645~48)蛇窪村が上下に分かれた際、鎮守の神明社も当社と下神明天祖神社に分立したという。御祭神も三社託宣の伊勢・春日・八幡の三柱で、両社共通である。
これに末社・厳島弁財天社の市杵島姫神・田心姫神・湍津姫神・蛇窪龍神・白蛇大神、伏見稲荷社の稲荷大神を合わせて蛇窪大明神と総称する。
当社の創建に関しては次のような伝承がある。
文永8年(1272)11月10日、北条重時(鎌倉幕府第2代執権・北条義時の三男)が、五男の時千代に多数の家臣をつけてこの地に残した。後に時千代は出家して法円と号し、大森の厳正寺(大田区大森東)の開山となったが、家臣たちの多くはそのまま蛇窪に居住した。このため、当地の旧家は厳正寺の檀家が多いという。
それから約50年たった元亨2年(1322)武蔵国一体を大干魃が襲い、飢饉が発生しかけた。これを見た厳正寺第二世の法密上人(法円の甥)は、寺の北西方向にある森の中の古池の龍神社で雨乞いの断食祈願を行った。すると上人の赤誠と神霊の冥助により大雨が降り、ついに一大危機を免れることができた。
これに感激した時千代の旧家臣たちが蛇窪に神社を勧請し、神恩に応えたのが当社の始まりであるという。
また一説には、鎌倉時代、当地の豪農・森屋氏が創建したとも伝えられている。
補足
上記御由緒にある厳正寺雨乞いの伝承は、『荏原区史』の記述に基づき、年代等もそのまま引用しているが(神社の公式サイトも同様)、『新編武蔵風土記稿』では文永8年を厳正寺開創の年としている。北条重時は弘長元年(1261)に没しているので、こちらが妥当であろう。
新編武蔵風土記稿
神明社
除地二段二畝。村西の方にあり。社二間に二間半。村の鎮守なり。勧請の年歴を詳にせず。馬込村長遠寺の持。
末社稲荷社 本社の側に在り。
荏原区史
天祖神社(村社、二葉町六丁目三四番地)
(前略)当社縁起に就いて次の様な興味ある伝説がある。
文永八年十一月十日、北條四郎左近太夫陸奥守重時が関東下向の時、五男時千代に数多の家臣に添へて此の地にのこした。時千代は後に法円上人と称して、大森厳正寺の開山となり、其の家臣共は概ね蛇窪辺に居住した。現在当地の在住者で厳正寺の檀徒が多いのは、爰に遠因する所が多い。斯くて五十年許りを経て、元亨二年武蔵国一帯が大旱魃となり、飢饉を来さんとした。此の時に当つて、大森厳正寺には第二世法密上人(法円の甥)が住して居たが、之を黙視するに忍びず、大慈悲心より同寺の戍亥に当る森林中の古池に祀れる龍神社に雨乞の断食祈祷を籠めた処、彼の赤誠と神霊の冥助とに依つて、大雨沛然として到り、遂に一大危機を脱するを得た。之に感激した時千代の旧家臣等は、此処に当社を勧請して神恩に対へ奉つた。
これが今の天祖神社の縁起であるとしてゐる。間々不審の点はあるが、当地の旧家の多くは厳正寺の檀徒である事などを見る時、何んとなく捨て難いので敢へて採録した。
写真帖
メモ
上神明天祖神社は、いろいろな意味で印象的な神社である。もっとも印象に残るのは、境内社である弁天社の白龍・白蛇と稲荷社の白狐であろう。崇敬者の手作りとのことだが、何ともいえない味わいがある。
近年は教化活動や地域活動にも力を入れているようで、字の印象のためか東京市編入の際に消滅した「蛇窪」の名を前面に出すなど歴史や伝統をきちんと踏まえた上で、ゆるキャラなど時流に即した要素も取り入れるなど、非常にバランスのとれた活動をしている印象を受ける。
御朱印にもそれは現れていて、従来の伝統を堅持した「上神明天祖神社」の御朱印を残す一方で、現代的な感覚を盛り込んだ「蛇窪大明神」の御朱印を授与するようになった。カラフルでありながら品があり、かつ現代的でありながら、古い明神号を用いた蛇窪大明神の御朱印は、センスの良さでは全国屈指のものではないだろうか。それ以外にも、弁財天の御朱印の揮毫など、様々なこだわりが見て取れる。
近年、那須与一のかわいらしいオリジナル朱印帳を授与するようになった大田区中央の太田神社も上神明天祖神社の兼務社で、朱印帳や御朱印の作成に当たっては宮司さんのアドバイスがあったと聞いている。
上神明天祖神社の概要
名称 | 天祖神社 |
---|---|
通称 | 上神明天祖神社 |
旧称 | 神明社 |
御祭神 | 天照大御神〔あまてらすおおみかみ〕 〈相殿〉 天児屋根命〔あめのこやねのみこと〕 応神天皇〔おうじんてんのう〕 |
鎮座地 | 東京都品川区二葉四丁目4番12号 |
創建年代 | 元亨2年(1322) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 9月15・16日に近い土・日曜日(蛇窪祭) |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月12日/弁天祭初巳祭 2月3日/子供節分祭 2月上午の日/伏見稲荷社 初午祭 2月11日/紀元祭 2月17日/祈年祭 4月10日/厳島弁天社 例祭 5月/お田植え祭 6月30日/夏越大祓式 7月7日/蛇窪龍神祭(七夕祭) 7月/形代流し 11月23日/新嘗祭 12月30日/師走大祓式 12月31日/除夜祭・荒神祭 |
巡拝 | 荏原七福神(弁財天) |
交通アクセス
□都営浅草線・東急大井町線「中延駅」より徒歩約5分
□JR横須賀線「西大井駅」より徒歩約8分