正平13年(1358)新田義興公(新田義貞の第二子)と公に従う将兵十数名は、奸計のため矢口渡で壮烈な最期を遂げた。村人たちは主従の忠烈を崇め、墳墓を築き、祠を建てた。古くは十騎明神と称したが、後に「十寄」と書いて「とよせ」と読むようになったという。
正式名称 | 十寄神社〔とよせじんじゃ〕 |
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御祭神 | 新田義興 井弾正左衛門 世良田右馬助 市川五郎 土肥三郎左衛門 由良兵庫助 由良新左衛門入道信阿 南瀬口六郎 松田与市 宍道孫七 進藤孫六左衛門 堺壱岐権守 |
社格等 | 無格社(※府社新田神社境外摂社) |
鎮座地 | 東京都大田区矢口2-17-28 [Mapion|googlemap] |
御由緒
十寄神社は新田神社の御祭神・新田義興公及び義興公と最期をともにした将兵を祀る。
新田義興は新田義貞の第二子で、各地で奮戦し、南朝を支えた。しかし正平13年(1358)10月10日、鎌倉公方・足利基氏と執事の畠山国清の命を受けた竹沢右京亮や江戸遠江守、江戸下野守らの奸計により、支族及び近習の将兵十数名とともに矢口渡で壮烈な最期を遂げた。その後、主従の忠烈を崇める村人らが墳墓を築き、祠を建立したと伝えられる。
『太平記』は従者の数を13人とするが、名前が記されているのは世良田右馬助、井弾正忠、大島周防守、土肥三郎佐衛門、市河五郎、由良兵庫助、由良新左衛門尉、南瀬口六郎の8名である。『新編武蔵風土記稿』によれば、『異本太平記』は上記8名に松田與市、宍道孫七、堺壹岐権守、新藤孫六左衛門の4人を加えた12人とするといい、13人というのは字の書き間違い、あるいは義興を加えて13人なのかもしれないという。
因みに上記の御祭神は『平成「祭」データ』に従ったが、境内の掲示では世良田右馬亮義周、井弾正左衛門、大島周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、進藤孫六左衛門、堺壱岐権守、土肥、南瀬口、市河とし、さらに自刃戦死者として大島兵庫頭義世、松田與市、宍道孫七、堀口義満の名もあるとする。
いずれにせよ、義興主従を合祀して十騎明神と称したが、いつの頃からか十寄と書いて「とよせ」と呼ぶようになったという。
補足
戦前の社格について、神社明細帳等から見て最初は府社新田神社の境外摂社だったが、後に無格社になったものと思われる。昭和6年(1931)の『荏原郡矢口町現状調査』には十寄神社の名前はない。
御朱印
平成26年拝受の御朱印。中央の朱印は神璽。
写真帖
メモ
新田神社から300mほど南に鎮座する小さな神社。多摩川七福神の毘沙門天ということで、拝殿内に可愛らしい毘沙門天がお祀りしてある。
御朱印は本務社の徳持神社でいただいた。
十寄神社の概要
名称 | 十寄神社 |
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通称 | 十騎さま |
旧称 | 十騎神社 十寄明神社 下矢口神社 |
御祭神 | 新田義興〔にった よしおき〕 井弾正左衛門 世良田右馬助 市川五郎 土肥三郎左衛門 由良兵庫助 由良新左衛門入道信阿 南瀬口六郎 松田与市 宍道孫七 進藤孫六左衛門 堺壱岐権守 |
鎮座地 | 東京都大田区矢口二丁目17番28号 |
創建年代 | 正平13年(1358) |
社格等 | 無格社(※府社新田神社境外摂社) |
例祭 | 10月10日 |
神事・行事 | 1月1日/元旦祭 4月10日/春季例大祭 |
巡拝 | 多摩川七福神(毘沙門天) |
交通アクセス
□東急多摩川線「武蔵新田駅」より徒歩約11分
□東急多摩川線「矢口渡駅」より徒歩約12分