社伝によれば、延徳元年(1489)鵜ノ木村の名主・天明家の祖である五郎右衛門光虎が下野国佐野から移住してきたとき、一族の守護神として八幡大神を祀ったことに始まると伝えられる。現在の社殿は平成12年(2000)に再建されたものである。
正式名称 | 八幡神社〔はちまんじんじゃ〕 |
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通称 | 鵜ノ木八幡神社〔うのき はちまんじんじゃ〕 |
御祭神 | 誉田別尊 |
社格等 | 式内論社 旧無格社 |
鎮座地 | 東京都大田区南久が原2-24-1 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1)平成19年拝受の御朱印。大田区神社めぐりのスタンプに揮毫「鵜ノ木八幡神社」。
(2)平成26年拝受の御朱印。朱印は「鵜ノ木八幡神社」。社号は印判。
御由緒
延徳元年(1489)下野国佐野から移住してきた天明五郎右衛門光虎が一族の守護神として八幡大神を祀ったことに始まると伝えられる。
天明家は鵜ノ木村の名主で、『新編武蔵風土記稿』によれば、光虎の父・右兵衛佐光義は室町氏の庶流で、故あって下野国佐野の天明宿に下り、天明伊賀守光信と名を改めた。五郎右衛門光虎と帯刀義光兄弟が移住し、新田を開発したという。小金井市の江戸東京たてもの園には天明家の屋敷が保存されている。
『新編武蔵風土記稿』には当社について、「除地二段余、村の北にあり…(中略)…鎮座の年歴を詳にせず」と記している。当時の別当は青林山増明院(大田区鵜の木、真言宗智山派)であった。また、寛文(1661~72)の頃、青山因幡守が深く崇敬し、社殿を改修したという伝承がある。
弘化4年(1847)改築の旧社殿は昭和20年(1945)の米軍による空襲で焼失。現在の社殿は平成12年(2000)に再建されたものである。この時、改めて八幡宮の総本社である宇佐神宮より御分霊を勧請した。
なお、『式内社調査報告』は当社を式内社・薭田神社の論社とする。『新編武蔵風土記稿』に鵜の木村の名主・五郎右衛門(天明家)の邸内の祠が古の薭田神社と言われているという記述があることを根拠とするらしい。
しかし『新編武蔵風土記稿』を見ると、薭田神社とされる天明家の邸内社は鵜ノ森明神社である。御祭神が鵜草葺不合命であったことから村の名も鵜ノ森村と称したが、光明寺の住職が故あって「鵜ノ木村」と書いたために村名が改められたという。
その後、鵜ノ森明神社は所在不明となっている。そのため『式内社調査報告』は鵜ノ木八幡神社を論社としたようである。
資料
新編武蔵風土記稿
八幡社
除地二段余、村の北にあり。社は二間半四方。前に石の鳥居を建て、入口に石階五級を設く。鎮座の年歴を詳にせず。祭礼九月なり。村内増明院のもちなり。
鵜ノ森明神社
名主五郎右衛門が構へにあり。語り伝へに此辺、鵜の森、烏の森、鷺の森、鈴ヶ森を合せて四の森と昔より土人いひならはせり。今、北蒲田村の八幡を薭田神社と称するは訛りにて、薭田神社は則当社なり。当社の祭神鴎鵜草葺不合尊なる故に村をも古へは鵜ノ森と唱えられしと。光明寺の先住、故有て鵜ノ木村と書せしより今の村名となりしなど云へども、この家にのみにて伝ふることなれば疑ふべし.(後略)
写真帖
メモ
まだ新しい白木の社殿が清々しい印象を与える。『新編武蔵風土記稿』に入口に五段の石段があると記されているが、現在も同じように石段がある。拝殿前の狛犬は、戦火を免れた明治24年(1891)奉納の立派なものである。
当社の名称について、『平成「祭」データ』は鵜ノ木八幡神社とするが、東京都の宗教法人名簿では八幡神社とある。当サイトでは、東京都の寺社については宗教法人として登記している名称を正式名称としているため、当社についても八幡神社を正式名称、鵜ノ木八幡神社を通称として扱う。
鵜ノ木八幡神社の概要
名称 | 八幡神社(※東京都宗教法人名簿による) |
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通称 | 鵜ノ木八幡神社 |
旧称 | 八幡社 |
御祭神 | 誉田別尊〔ほんだわけのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都大田区南久が原二丁目24番1号 |
創建年代 | 延徳元年(1489) |
社格等 | 式内社(論) 旧無格社 |
延喜式 | 荏原郡 薭田神社 |
例祭 | 9月15日に近い土・日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月3日/節分祭 旧11月23日/新嘗祭 12月31日/大祓式 |
交通アクセス
□東急多摩川線「鵜の木駅」より徒歩約6分
□東急池上線「久が原駅」より徒歩約6分