名称 | 源光山 円手院 明石寺 |
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御本尊 | 千手観世音菩薩 |
所在地 | 愛媛県西予市宇和町明石201 [Mapion|googlemap] |
【本尊真言】
おん ばざらたらま きりく そわか
【御詠歌】
聞くならく千手の誓いふしぎには 大盤石もかろくあげ石
【略縁起】
寺伝によれば、欽明天皇の勅願により円手院正澄が開創し、天平6年(734)寿元という行者が熊野から十二社権現を勧請し、12坊を建立した。弘仁13年(822)弘法大師が嵯峨天皇の勅願により再興した。建久5年(1194)源頼朝が池禅尼の菩提を弔うために堂鵜を修復して阿弥陀如来を奉安、また経塚を築いた。この時、山号を現光山から源光山に改めたという。
明石寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は千手観音の種字「キリーク」に「千手観音」。中央の宝印は蓮台上の3個の火炎宝珠に「キリーク」。右上の印は白抜きで「四十三番」、左下は「覚」のような字だが、よくわからない。
(2)平成19年拝受の納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納」「本尊千手観音」「いよ(伊豫)源光山」「明石寺」。中央の宝印は蓮台上の三個の火炎宝珠に千手観音の種字「キリーク」で現在のものとほぼ同じ。右上の印は「四十三番」、左下は現在のものと同じ「覚」のような字。
(2)天保12年(1841)の納経。揮毫は「奉納」「本尊千手観音」「明石寺」。朱印は天保11年のものと同じ。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉納経」「本尊千手観音」「源光山」「明石寺」。朱印は現在のものとほぼ同じで、中央は蓮台上の3個の火炎宝珠に千手観音の種字「キリーク」、右上は白抜きで「四十三番」、左下は「覚」のような字。
明石寺について
山号 | 源光山(げんこうざん) |
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寺号 | 明石寺(めいせきじ) |
院号 | 円手院(えんじゅいん) |
御本尊 | 千手観世音菩薩 |
所在地 | 愛媛県西予市宇和町明石201番地 |
創建年代 | 伝・欽明天皇の御代(539~71) |
開山 | 円手院正澄 |
宗派等 | 天台寺門宗 |
文化財 | 〈登録有形文化財〉本堂 大師堂 地蔵堂 仁王門 客殿 鐘楼堂 手水舎 石垣及び塀 石段及び石垣 |
備考 | 南予七福神霊場(布袋尊) |
覚え書き
四国霊場の本関所といわれる。
御詠歌にもあるように、本来は「あげいし」と読んだようである。伝承によれば、その昔、宇和の平野は湖であった。深夜、美しい女神(千手観音の化身ともいう)が大石を戴いて運んでいると夜明けになってしまったため、山の麓に石を置いて姿を消したという。この伝承から「あげいし」の名がつき、御詠歌の由来ともなっている。また、この女神は白王権現として祀られ、明石寺の奥の院となっている(納経はないようである)。
欽明天皇の勅願により、円手院正澄が千手観音を安置して七堂伽藍を建立したことに始まるとされる。天平6年(734)役行者小角から5代目の寿元行者が熊野から十二社権現を勧請し、十二坊を建立したという。弘仁13年(822)弘法大師が嵯峨天皇の勅願により再興し、金紙金泥の法華経を納経した。
建久5年(1194)には源頼朝が命の恩人である池禅尼(平清盛の継母で、平治の乱の後、清盛に頼朝の助命を嘆願した)の菩提を弔うために伽藍を再興して阿弥陀如来像を奉安し、経塚を築いた。この時、山号を現光山から源光山に改めたという。中世以降も西園寺氏、伊達氏の祈願所として帰依を受けた。