名称 | 七宝山 神恵院 |
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御本尊 | 阿弥陀如来 |
所在地 | 香川県観音寺市八幡町1-2-7 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.shikoku88-6869.com/ |
【本尊真言】
おん あみりた ていぜい からうん
【御詠歌】
笛の音も松吹く風も琴弾くも 歌うも舞うも法の声々
【略縁起】
旧68番札所は琴弾八幡宮で神恵院観音寺が別当であった。大宝3年(703)当地で修行していた日証上人が八幡大菩薩の神託を受け、浜に流れ着いた神船を引き上げて、琴弾八幡宮と神宮寺の宝光院神宮寺(後の神恵院観音寺)を創建した。大同2年(807)弘法大師が訪れ、琴弾八幡宮の本地仏・阿弥陀如来の画像を描いて奉安した。明治の神仏分離に際して本地・阿弥陀如来は観音寺の西金堂に遷され、一境内に二札所が同居するようになった。
神恵院の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は「阿弥陀如来」。中央の宝印は火炎宝珠に阿弥陀如来の種字「キリーク」。右上の印は「六十八番」、左下は「神恵院」。
(2)平成18年拝受の納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納」「琴弾八幡宮」「七宝山」「神恵院」。中央の宝印はない。右上の印は「六十八番」、左下は「七宝山観音寺」。
(2)天保12年(1841)の納経。版木押しで「奉納経」「琴弾八幡宮広前」「西讃州七宝山」「別当 神恵院」。朱印は天保11年のものと同じ。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉納」「本尊阿弥陀仏」「神恵院」。中央の宝印は火炎宝珠に阿弥陀如来の種字「キリーク」、右上の印は「六十八番」、左下は「神恵院」で、現在のものとほぼ同じ。
神恵院について
山号 | 七宝山(しっぽうざん)/琴弾山(ことひきざん) |
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寺号 | - |
院号 | 神恵院(じんねいん) |
旧称 | 宝光院神宮寺 七宝山神恵院観音寺 |
旧札所 | 琴弾八幡宮 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
所在地 | 香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号 |
創建年代 | 大宝3年(703) |
開山 | 日証上人 |
宗派等 | 真言宗大覚寺派 |
文化財 | 〈重文〉絹本著色琴弾八幡本地仏像 |
覚え書き
68番・69番は一つの境内に二つの札所が同居していることで知られる。江戸時代までの68番札所は琴弾八幡宮で、別当の七宝山神恵院観音寺も69番札所であった。江戸時代の納経帳を見ると、68番琴弾八幡宮の別当としては院号の神恵院を、69番札所としては寺号の観音寺を使っていたことがわかる。
大宝3年(703)日証上人が琴弾山で修行をしていたところ、西方の空が鳴動し、三昼夜にわたって天が黒雲に覆われた。そして一艘の船が浜辺に近づき、中から妙なる琴の音が聞こえた。不思議に思った上人が「どのような神人でしょうか。なぜここにいらっしゃったのでしょうか」と尋ねると、「我は八幡大菩薩なり」と答えがあった。上人が「愚かな凡夫は奇跡を見ないと信じることができません」と証しを求めると、その夜のうちに海が竹林に、砂浜が松林になるという奇瑞があった。驚いた上人は童男童女を集め、船を琴弾山上に引き上げて祀った。これが琴弾八幡宮の創祀で、同時に神宮寺として宝光院神宮寺(現在の神恵院観音寺)を開いたという。
大同2年(807)弘法大師が八幡大菩薩の本地仏である阿弥陀如来像を描いて安置した。国の重要文化財である「絹本著色琴弾八幡本地仏像」がそれと伝えられる。また、神宮寺の七堂伽藍を整備し、本尊の聖観世音菩薩などを奉安して、七宝山観音寺と改めたという。その後、理源大師聖宝が院号を神恵院に改めたとされる。
明治の神仏分離により、本地・阿弥陀如来像は観音寺の西金堂へ遷され、一境内に二札所が同居することになった。六十八番札所としては神恵院を称する。以前は山号を「琴弾山」としていたが、近年は「七宝山」を用いているようだ。明治期の納経帳でも山号は七宝山のままであり、琴弾山を使うようになったのは第二次大戦後ではないかと思われる。
本堂は平成14年(2002)現在の位置に移築された。コンクリート製の外壁を持つ近代的な建築の中の階段を上ると、木造の本堂がある。歴史を重ねた木造建築が並ぶ境内にあって、かなり異質な印象を受ける。