六郷神社は六郷地域の総鎮守として崇敬される。社伝によれば、奥州に下向する源頼義・義家親子が当地の大杉に白旗を立てて石清水八幡宮に戦勝を祈願し、凱旋後、その御分霊を奉斎したことに始まるとされる。源頼朝もその吉例にならって戦勝を祈願、奉斎として梶原景時に社殿を造営させたという。式内社・薭田神社に比定する説もある。
正式名称 | 六郷神社〔ろくごうじんじゃ〕 |
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御祭神 | 誉陀和気命 |
社格等 | 式内論社 旧郷社 |
鎮座地 | 東京都大田区東六郷3-10-18 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.rokugo.or.jp/ |
御朱印
(1) | (2) |
(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は「六郷神社」。右上の印は「?」、左下は「八幡宮」。
(2)平成28年拝受の御朱印。中央の朱印は平成18年のものと同じ「六郷神社」。右上の印は「延命長寿」、左下は「八幡宮」。
昔の御朱印
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(1)昭和8年の御朱印。右上に「東京府下六郷町鎮座」、中央上に「郷社六郷神社」、右下に「神璽」、左下に「六郷神社々務所之印」。なお、六郷町は前年の市郡合併で東京市蒲田区となっており、この時点ではまだ古い印を使っていたものと思われる。
御由緒
御祭神
■誉陀和気命(応神天皇)
古くは応神天皇・神功皇后・比売大神の三座であったが、ある年の曳船祭(かつて、六号八万の例祭は曳船祭と称し、御輿を船に乗せて羽田から大師河原まで渡御していた)で一座の御輿が上総へ流されてしまった。また、一座は大変な荒ぶる神で、しばしばたたりを起こしたので土中に埋めてしまい、応神天皇一座になったという。現在の本殿は享保4年(1719)の造営だが三座をお祀りする様式になっているため、一座になったのはそれ以降のことだろうとされている。
由緒(歴史)
六郷神社は六郷地域の総鎮守。『新編武蔵風土記稿』によれば八幡塚・高畑・古川・町屋・道塚・雑色等6ヶ村の鎮守で、これら6ヶ村はもともと六郷村という一つの村だったという。古くは八幡社と称し、『江戸名所図会』には六郷八幡宮とある。旧別当は真言宗の御幡山宝珠院(仲六郷4)。
社伝によれば、奥州に向かう源頼義・義家親子がこの地の大杉に源氏の白旗を掲げて石清水八幡宮に武運長久を祈った。凱旋後、石清水八幡宮の分霊を勧請したという。この杉は「白旗の杉」「旗懸杉」と呼ばれ、御神木とされていたが、惜しくも大正11年(1922)に枯死した。その根株は今も境内で大切に保存されている。
また、文治5年(1189)源頼朝は奥州征討に際し、先祖の吉例に倣ってこの地に白旗を立てて戦勝を祈願し、凱旋の後、梶原景時に命じて社殿を造営させたという。この時、頼朝は社宝の雌獅子頭と浄水石を寄進、また社前の神橋は梶原景時が寄進したものと伝えられる。
一説には、源頼朝が安房国から大軍を率いて鎌倉に入るとき、この地に白旗を立てて軍勢の到着を待った旧跡であり、勝利の後に鶴岡八幡宮の御分霊を祀ったとも、石橋山の合戦で敗れた後、上総に渡る際に当地に旗を立て、その後鶴岡八幡宮を勧請したともいう。
天正19年(1591)徳川家康は朱印領18石を寄進。慶長5年(1600)六郷大橋の竣工を祈って願文を奉り、完成後の渡り初め式は当社の神輿をもってした。この由緒をもって当社では巴紋とともに葵紋を用いるという。
明治5年(1872)郷社に列格、同9年(1876)現社号に改める。
当社を延喜式神名帳所載の荏原郡・薭田神社に比定する説もあるが、現在の由緒では延喜式成立より後の天喜5年(1057)の創建としており、式内社であるとは主張していないようだ。
写真帖
メモ
手入れの行き届いた広く風格のある境内。行くまで知らなかったのだが、拝殿前左右の紅梅白梅をはじめ、梅の花が見事で、写真を撮るにはちょうどよい時期であった。
六郷神社の概要
名称 | 六郷神社 |
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旧称 | 八幡社 八幡宮 六郷八幡宮 |
御祭神 | 誉陀和気命〔ほんだわけのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都大田区東六郷三丁目10番18号 |
創建年代 | 天喜5年(1057) |
社格等 | 式内社(論社) 旧郷社 |
延喜式 | 武蔵国荏原郡 薭田神社 |
例祭 | 6月3日 ※土曜日/獅子舞奉納・神獅子巡行・六郷囃子奉納 ※日曜日/御神幸祭 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月7日/流鏑馬祭 2月3日/節分祭 2月18日/祈年祭 6月30日/大祓 9月22日/天祖神社・氷川神社祭 11月3日/崇敬者大祭 11月24日/新嘗祭 12月30日/大祓 |
交通アクセス
□京浜急行本線「六郷土手駅」より徒歩約7分