六十六部が最も盛んになるのは江戸時代、特に18世紀以降である。ノートルダム清心女子大学の小嶋博巳教授は、17世紀末から18世紀初頭が六十六部の画期であると指摘されているが、御朱印の歴史から見てもこの時期に大きな画期となる出来事が起きている。
納経帳の登場である。
それまで六十六部は各寺社から納経請取状を受け取っていたが、この頃から納経帳を携行し、各寺社で貴重押印してもらうという形に変わったのである。
納経請取状は現在の御朱印とは見た目がまったく違っており、御朱印の起源ではあっても、そのまま御朱印と呼ぶことはできない。
しかし納経帳は現在でも四国八十八ヶ所や西国三十三所などの霊場で使われており、しかも御朱印と区別することはできないため、納経帳の登場をもって御朱印の出現ということができるのではないかと思われる。
納経請取状から納経帳へ
納経請取状は六十六部が納経の証しとして受け取ったものだが、単なる事務的な受領証ではなかった。
例えば承応2年(12月なので西暦では1654年)の四天王寺の納経請取状の場合、文面は次のようになっている。
摂津国四天王寺
奉納大乗妙典 一国壹部
夫当寺者佛法最初霊地一切衆生帰
依渇仰□□修善速證无上大菩提処
也 右志趣者現世安穏後生善処意
願所仍真文如件
四天王寺は日本仏法最初の霊地で、帰依か都合すればたちまち無常の悟りを得ることができること、納経の趣旨は現世での安穏と来世で浄土に生まれることができることを願ってのものである、といった内容である。
納経請取状は単なる納経の記念のようなものではなく、行者が実際に全国を巡って納経したことを施主(スポンサー)に証明するためのものであったと思われる。
とはいえ、インターネットもなければ、旅行ガイドもない時代、伊勢神宮や比叡山、高野山、あるいは善光寺のような超有名寺社でない限り、いくら各国を代表する寺社といってもどういうところかはわからなかったはずである。
そこで、どういう寺社に納経したかが施主にわかるように由緒・縁起や納経の功徳を簡略に記したのであろう。施主もただ知らない寺社の名前を聞くより満足感があったはずである。
18世紀初頭の納経帳を見ると、納経請取状から御朱印らしいスタイルに変わっていった様子がよくわかる。
享保10年(1725)から12年(1727)にかけて西日本各地を巡拝した六十六部の納経帳を見てみよう。
こちらは京都の下鴨神社(右)と西国18番・頂法寺(左)。下鴨神社の納経には「洛陽東北下鴨御祖皇大神宮王城守護御読経所普賢延命菩薩御広前者也」、頂法寺の納経には「洛陽六角堂聖徳太子開基本尊如意輪観世音御宝前西国第十八番」とあり、納経請取状の形をよく残している。
こちらは伯耆国の国分寺(右、鳥取県倉吉市)と一宮・倭文神社(左、鳥取県湯梨浜町)の納経。かなり現在の御朱印に近いものとなっている。
こちらは播磨国の一宮・伊和神社(右、兵庫県宍粟市)と美作国の国分寺(左、岡山県津山市)の納経。揮毫は現在の御朱印に近いが、中央に朱印が押されてない。この納経帳では一番多く見られる形式で、当時は朱印を押さないのが主流だった。むしろ朱印を押すというのは新しい趣向だったようだ。
江戸時代末には大半の寺社が中央に朱印を押すようになるが、それでも明治半ばまでは四国や西国の札所でも中央の朱印がないところがあった。
さて、納経請取状から納経帳への流れを見ると、納経帳や御朱印で中心に書く御本尊や寺社名は、納経請取状に記されていた由緒・縁起を略したものだということがわかる。倭文神社の納経にある「伯耆国河村郡宮内村 正一位一宮大明神倭文神社 下照姫命也」は、その変化の過程を示す貴重な例といえよう。
納経請取状なら事前に準備しておくことができるが、納経帳はその場で書かなければならないため、内容が簡略化されることになったのだろう。
それが結果として現在の御朱印の形式になったわけである。
納経帳の広がり
同じ頃、もう一つ御朱印の歴史に関わる六十六部の大きな変化があった。巡拝対象の拡大である。
もともと六十六部は全国六十六ヶ国の代表的な寺社1ヶ所に納経していたのだが、18世紀に入ると各国の一宮と国分寺、人によっては一国一社八幡宮も巡拝し、さらに四国八十八ヶ所や西国三十三所などの霊場も巡拝対象に組み込んだ。
そうなると、当然四国八十八ヶ所や西国三十三所の札所寺院も納経帳への記帳に対応するようになるわけだが、これを見た四国や西国の巡礼が六十六部に倣って納経帳を携行するようになった。18世紀半ば以降、四国八十八ヶ所や西国三十三所の納経帳が見られるようになる。
19世紀前半の文化・文政から天保の頃には庶民までかなり広く浸透していたようで、当時の四国八十八ヶ所や西国三十三所の納経帳がかなり残っている。
こちらは文政4年(1821)紀伊国海士郡梅田村(現・和歌山県海南市)に住んでいた「ちよ」という女性が四国八十八ヶ所を巡拝したときの納経帳。
納経帳の庶民への広がりには、六十六部の納経の実態が写経の奉納から納札の奉納に変わったことも影響しているだろう。もし写経の奉納が必須であれば、庶民に広がることはなかっただろう。
それどころか、今でも四国八十八ヶ所で納経帳への記帳押印をお願いするときに「納経をお願いします」と言うように、納経帳へ記帳押印すること、あるいは記帳押印されたもの(現代で言うところの御朱印)自体を「納経」と呼んでいた。つまり納経の意味が変わっていたのである。
因みに「納経印」という呼び方もあるが、これは「納経」では「写経の奉納」なのか納経帳への記帳押印なのかが区別できないために使われるようになった新しい言葉である。たぶん21世紀に入り、インターネット上で御朱印が紹介されるようになってからできた言葉であろう(※H30.08.23.追記:昭和50年代に「納経印」を使っている例がある)。
なお、江戸時代には「納経帳」の他、「順拝帳」という表題もよく見かける。「帳」のかわりに「帖」「牒」「簿」なども使われていた。
さらに、その後も六十六部の巡拝対象を拡大し、札所ではない一般の寺社にも参拝・納経(写経ではなく納札の奉納と納経帳への記帳押印)するようになった。各国で六十六ヶ所ずつ巡拝した人もいるというが、数にこだわりなく参拝したというのが実態と思われる。そのため、一般の寺社も納経に対応するようになった。
こちらは慶応3年(1867)の美濃国加茂郡峯村(現・岐阜県加茂郡八百津町南戸)の夫婦が善光寺・戸隠山に参拝したときの納経帳で、右が長野県飯田市の長久寺(飯田藩主堀家菩提寺)、左が光福寺(伊那西国観音札所21番)。地方の霊場や一定の規模をもった寺社が、一般人の納経に対応していたことがわかる。
こうして江戸時代後半に、寺社に参拝をしたら納経帳に記帳押印してもらうという習慣が広く定着した。これがそのまま現在の御朱印へとつながっているわけである。