かつては鈴木新田(現在の羽田空港内)に鎮座していた。文化元年(1804)頃、しばしば激しい波で沿岸の堤防に大穴が開いて被害を受けた。そこで稲荷大神を祀ったところ、被害が収まったということから「穴守稲荷」と呼ばれるようになった。明治から大正・昭和にかけて広く信仰を集め、特に花柳界の信仰が篤かった。昭和20年(1945)羽田空港拡張のためGHQより立ち退きを命じられ、崇敬者からの寄進により現社地に遷座した。
大田区の神社
正式名称 | 穴守稲荷神社〔あなもりいなりじんじゃ〕 |
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御祭神 | 豊受姫命 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都大田区羽田5-2-7 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://anamori.jp/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。上の朱印は神紋で抱き稲に「穴守」、下は「穴守稲荷神社」。右上に「東京羽田鎮座」。
(2)平成26年拝受の御朱印。上の朱印は神紋、下は「穴守稲荷神社」、右上は「東京羽田鎮座」で平成17年のものと組み合わせは同じだが、印は新しくなっているようだ。
(3)平成19年拝受、羽田七福いなりめぐりの御朱印。朱印は「穴守稲荷神社」のみ。
昔の御朱印
(1)大正10年頃の御朱印。上の朱印は「穴守稲荷」、下は「穴守稲荷社務所之印」。
(2)昭和8年の御朱印。揮毫は「穴守神社」。中央上の朱印は円に「穴守稲荷神社」、下に「穴守稲荷社務所之印」、右上に「東京羽田鎮座」。
御由緒
元は現在の羽田空港内の要島・鈴木新田に鎮座していた。この辺りはかつて扇形の低湿地帯になっており、扇ヶ浜と呼ばれた。その扇の要に当たるのが要島で、天明年間(1781~89)鈴木弥五右衛門が新田開発を行ったことから鈴木新田と呼ばれるようになった。
文化元年(1804)頃、激しい波のため、しばしば鈴木新田の堤防に大穴が開き、大きな被害を受けた。そこで、稲荷大神を祀ったところ、風浪の被害が治まったという。波による大穴から田畑を守るということから、穴守稲荷と称されるようになった。
明治以降、広く信仰を集めるようになり、明治18年(1885)公衆参拝が許可されて、社殿が新築された。「穴守」の名から、女性の病気の守護神として、特に花柳界の信仰が篤かった。
明治35年(1902)には海老取川の稲荷橋まで電車が開通。参拝者の増加に伴って社務所や水行場が設けられた。同40年代になると周辺に競馬場や海水浴場、水泳場そのたの娯楽施設ができ、庶民が一日楽しめる行楽地となった。
大正から昭和にかけて崇敬者は海外にも広がり、各地に200を超える講が結成されて殷賑を極めた。戦後は暫く途絶えたものの、昭和30年代になると復活や結成の動きが起こり、今も東京・神奈川・千葉・埼玉などに講社がある。
昭和4年(1929)御大典を機に村社へ昇格。
ところが昭和20年(1945)9月、GHQより羽田空港拡張のため、48時間以内の強制退去を命じられ、やむなく羽田神社に合祀。その後、崇敬者有志により境内地700坪を寄進され、現在地に仮社殿を復興して遷座した。
以来、崇敬者の協力により社殿その他の再建が進められ、昔日の盛観を取り戻しつつある。
写真帖
メモ
戦前は流行神としてその名を響かせ、多くの参詣者を集めた。奉納された鳥居は数万基とも。また、周辺にはさまざまな娯楽施設もでき、行楽地としても人気を集めたという。
御朱印収集においては、飛行機が描かれたオリジナルの御朱印帳が知られていた。ただし平成20年現在、以前の飛行機と社殿をデザインした御朱印帳は頒布終了。新しく、かわいらしい狐をモチーフにした御朱印帳(朱色)が頒布されている。なお、平成26年に奥之宮改修の奉賛金の奉納者に授与される。
穴守稲荷神社の概要
名称 | 穴守稲荷神社 |
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御祭神 | 豊受姫命〔とようけひめのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都大田区羽田五丁目2番7号 |
創建年代 | 文化元年(1804) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 11月3日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月3日/節分祭 2月初午の日/初午祭 2月11日/建国祭 2月17日/祈年祭 3月春分/春分祭 5月1日~30日/五月祭 5月28日/遷座記念祭 6月1日/御田植祭 6月30日/大祓式 8月下旬金・土日曜日/献灯祭 9月一の午の日/奥之宮例祭 9月敬老の日/敬老祭 9月秋分/秋分祭 10月17日/神嘗祭当日祭 11月23日/新嘗祭 12月31日/大祓式・除夜祭 |
巡拝 | 羽田七福いなりめぐり |
交通アクセス
□京浜急行空港線「穴守稲荷駅」より徒歩約3分