宗忠神社(神楽岡)

宗忠神社

宗忠神社は、黒住教の教祖・黒住宗忠(宗忠大明神)を祀る。高弟・赤木忠春の尽力により、文久2年(1862)創建された。関白二條公・九條公ら朝廷・公卿の尊崇篤く、慶応元年(1865)には孝明天皇の唯一の勅願所となり、翌2年(1866)には神階従四位下を賜った。
京都府の神社

正式名称 宗忠神社〔むねただじんじゃ〕
御祭神 宗忠大明神(黒住宗忠)
社格等 旧府社
鎮座地 京都市左京区吉田下大路町63 [Mapion|googlemap]
公式サイト http://munetadajinja.jp/
全国各地の神社の御朱印、由緒、アクセスなどの紹介
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御由緒

御祭神・宗忠大明神(黒住宗忠)は教派神道十三派の一・黒住教の教祖。安永9年(1780)11月26日(旧暦)の冬至の日、岡山市北区に鎮座する今村宮の禰宜の家に生まれた。

幼少の頃より孝心篤く、真の親孝行とはということを自問し続けた末、20歳の頃「生きながら神になる」という志を立て、「心に悪いと思うことを決して行わず、善きことのみを実行する」という実践を行った。享和3年(1803)初めて伊勢神宮に参詣し、文政8年(1825)には伊勢講をつくっている。

文化9年(1812)流行病のために両親を1週間ほどのうちに亡くしてしまう。その悲しみが元で自らも病に冒され、同11年(1814)正月には危篤状態になった。死を覚悟した宗忠は、旧暦1月19日の厳寒の朝、今生の別れに最後の日拝(日の出を拝すること)を行った。

この時、両親の死を悲しみ、心を痛めて陰気になったことが病気の原因であり、それは大変な親不孝であることに気づいた。そして、せめて生きている間は心を陽気にし、明るく心を養うことこそ真の親孝行であると心機一転すると、病が軽くなった。とはいえ病状は重いままであったが、2ヶ月後、妻が止めるのも聞かずに入浴し、縁側に這い出て日拝を行うと病が一時に全快した。

同年11月11日、陰極まって陽に転ずる冬至の日、日拝を行っているときに天照大神と自己が同魂同体であるという神秘体験をした。これを黒住教では「天命直綬」と呼び、この日を立教の日としている。

以来、今村宮に禰宜として奉仕するかたわら、まじないと講釈によって布教活動を始め、病を癒された人や宗忠の人柄、あるいは教えに感銘を受けた多くの人々が門人・信者となった。嘉永3年(1850)数え71歳で昇天する。

宗忠の没後、六高弟を中心に布教が進められるが、中でも赤木忠春は京都へ出て布教を開始するとともに、黒住教の合法化のために尽力、安政3年(1856)吉田家を通じて「宗忠大明神」の神号を授かった。さらに関白九条尚忠の娘の病を治したことから公卿にも入信するものが現れ、ついには孝明天皇の御前でご進講をするに至った。

文久2年(1862)吉田神社より吉田山(神楽岡)東南の高台を提供され、宗忠神社が創建された。

元治元年(1864)の蛤御門の変に際して、側近から比叡山への御動座を進められた孝明天皇は、宗忠大明神の神意を求めた。これに対して赤木忠春が「御動座無用」の神意を取り次いだため、孝明天皇は御所に留まられたという。

二條家・九條家をはじめとする朝廷・公卿の尊崇篤く、慶応元年(1865)には孝明天皇の勅願所となっている。さらに翌慶応2年(1866)には神階従四位下を宣下された。孝明天皇が勅願所とされたのは神楽岡の宗忠神社のみである。

昭和17年(1942)には府社に列している。

現在の社殿は明治45年に造営されたもの。横に長い拝殿の背後に、宗忠大明神を祀る本社と天照大御神を祀る神明宮が鎮座する。神明宮は上社ともいい、慶応2年(1866)関白二条家の鎮守・神明宮を遷座したものである。

なお、宗忠神社は黒住宗忠生誕の地である岡山市北区上中野(通称・大元、教祖生誕の地、立教の地であることによる)にもある。両社を区別するため、当社を神楽岡宗忠神社、岡山の宗忠神社を大元神社と呼ぶことがある。

補足

神明宮の遷座について、宗忠神社の公式サイトでは慶応元年としているが、国会図書館デジタルコレクションの『神楽岡宗忠神社略由来記』(明治44年)には慶応2年のこととあるので、こちらに従うことにする。

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御朱印

  • 宗忠神社の御朱印

    (1)

(1)平成21年拝受の御朱印。中央上の朱印は「孝明天皇勅願所」、下は「神楽岡宗忠神社之印」。

昔の御朱印

  • 宗忠神社の御朱印

    (1)

  • 宗忠神社の御朱印

    (2)

(1)時期不詳の御朱印、大正末から昭和初めのものと思われる。中央上の朱印は「神楽岡宗忠神社之印」、その下は「京吉田 神楽岡 帰若館」、左下は「社務所印」。

(2)時期不詳の御朱印、昭和初めのものであろう。中央上の朱印は「神楽岡宗忠神社之印」、右上は「孝明天皇勅願所」、現在の御朱印と同じと思われる。左下は「京吉田 神楽岡 帰若館」。

写真帖

  • 鳥居

    一の鳥居

  • 狛犬

    備前焼の狛犬

  • 宗忠鳥居

    二の鳥居(宗忠鳥居)

  • 拝殿

    拝殿

  • 本殿

    本殿

  • 神明宮

    神明宮(上社)

  • 忠春社

    忠春社

  • 白山社

    白山社

見どころ

■備前焼の狛犬
一の鳥居の両脇に、備前焼の逆立ちの狛犬がある。備前焼の狛犬は岡山県を中心として全国各地で見られるが、京都市内には宗忠神社を含めて2ヶ所のみという。また、逆立ちの狛犬も全国で見られるが、備前焼で逆立ちの狛犬というのは非常に珍しいという。

■宗忠鳥居(二の鳥居)
石段上の二の鳥居は「宗忠鳥居」と呼ばれる形式である。神明鳥居の代表的な形式の一つで、鹿島鳥居と同じく柱と笠木が丸太材、貫が角材で柱の両端に貫き出るが、額束があるところが違っている。宗忠神社創建以前から存在していたが、宗忠神社の鳥居が比較的大型だったため、その代表として「宗忠鳥居」と呼ばれるようになったという。一時期、他の形式になっていたが、昭和57年(1982)御鎮座120周年の記念事業として、石造りの宗忠鳥居が再建された。

メモ

教派神道系(黒住教)ではあるが、孝明天皇の勅願所であり、旧社格では府社に列しているという珍しい神社である。孝明天皇の勅願所はここだけとのことである。

黒住宗晴教主の「神楽岡・宗忠神社ご鎮座百四十年記念祝祭によせて」によれば、赤木忠春の取り次ぎによって病気が平癒したという関白九条尚忠の娘というのは英照皇太后(孝明天皇の女御=正妃、九条夙子)のことである。英照皇太后は嘉永元年(1948)に入内しているので、赤木忠春が取り次ぎを行ったときには、すでに孝明天皇の妃になっていたということになる。孝明天皇の異例の崇敬も、英照皇太后の影響によるものであろう。

鎮座地は吉田山(神楽岡)の一角。西には閑静な住宅街をはさんで真如堂や黒谷の金戒光明寺がある。落ち着いた非常によい環境である。初めて参拝したのは十年ほど前で、徒歩で紅葉の真如堂から吉田神社に向かう途中。それまでその存在は知っていたものの、そこにあるとは知らなかったので、「ああ、ここが…」という印象だった。

宗忠神社の概要

名称 宗忠神社
通称 神楽岡宗忠神社
御祭神 〈上社・神明宮〉
天照大御神〔あまてらすおおみかみ〕
〈本社〉
宗忠大明神〔むねただだいみょうじん〕
鎮座地 京都市左京区吉田下大路町63番地
創建年代 文久2年(1962)
社格等 旧府社
例祭 4月第4日曜日(春季例大祭)
10月第3日曜日(秋季例大祭)
神事・行事 1月1日/元旦祭
2月節分/節分祭
3月春分の日/春季祖霊祭
5月第4日曜日/赤木忠春霊神祭
7月第3日曜日/大祓大祭
9月秋分の日/秋季祖霊祭
11月23日/白山社例祭・御火焚祭並びに新穀感謝祭
12月第2日曜日/冬至大祭

交通アクセス

□京阪鴨東線「神宮丸太町駅」「出町柳駅」より徒歩約20分
□JR「京都駅」よりバス
■市バス206系統「近衛通」下車徒歩約10分

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