伊雑宮は皇大神宮の別宮。垂仁天皇の御代、皇大神宮が五十鈴川の畔に鎮座すると、倭姫命は天照大御神の神饌を採るための御贄地を求めて志摩国を訪れ、伊佐波登美命に迎えられた。倭姫命は当地を御贄地と定め、伊雑宮を創建したと伝えられる。
正式名称 | 皇大神宮別宮 伊雑宮〔いざわのみや〕 |
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御祭神 | 天照大御神御魂 |
鎮座地 | 三重県志摩市磯部町上之郷374番地 |
社格等 | 皇大神宮別宮 式内論社(大) 志摩国一宮 |
御朱印
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(1)平成18年拝受の御朱印。朱印は「伊雑宮印」。
(2)平成28年拝受の御朱印。
昔の御朱印
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(1)文政5年(1822)の納経(御朱印)。揮毫は「奉納経」「志州磯部」「伊雑皇太神宮」「千田寺」。朱印はない。
※無量山千田寺は行基菩薩の開創という古刹であったが、明治11年(1878)に焼失し、廃寺となった。跡地は倭姫命旧跡地として整備され、倭姫命が引水したと伝えられる千田の御池が残っている。
御由緒
伊雑宮は皇大神宮(内宮)の別宮で、垂仁天皇の御代の創建と伝えられる。
皇大神宮が五十鈴川の畔に鎮座された後、倭姫命〔やまとひめのみこと〕が天照皇大神に供える神饌を採るための御贄地〔みにえどころ〕を求めて志摩国を訪れたとき、伊佐波登美命〔いざわとみのみこと〕が出迎えた。倭姫命はここを御贄地と定め、伊雑宮を創建されたという。古くから「天照大神の遥宮〔とおのみや〕」と称され、延暦23年(804)の『皇大神宮儀式帳』にもその名が見える。
延喜式神名帳所載の粟島坐伊射波〔あわしまにますいざわ〕神社に比定され、志摩国の一宮とされるが、伊雑宮ではなく鳥羽市安楽島の伊射波神社だとする説もある。
養和元年(1181)源氏に味方した熊野の衆徒が平氏の地盤である伊勢・志摩に侵攻、伊雑宮は破壊され、神宝を奪われた。享禄4年(1531)には九鬼氏に神領を横領されるなど、苦難の歴史を辿った。
神領を守るために設けられた伊雑御浦惣検校職も室町時代には衰微し、慶長6年(1601)と寛永15年(1638)の2度の仮殿遷宮は磯部七郷の郷人によって執り行われた。一方、室町時代には伊雑宮の御師も現れ、檀那を持つようになった。
江戸時代に入ると、伊雑宮の神人を中心とする神領回復運動が起こり、その中で伊雑宮は「伊雑皇太神宮」を称し、内宮外宮と同格で伊勢三宮である、むしろ内外両宮は伊雑宮の分家であるとの主張がなされるようになった。その主張を裏付けるための偽書を作成し、さらに『先代旧事大成経〔せんだいくじほんぎたいせいきょう〕』の出版にも関与したとされる。
明暦4年(1658)朝廷からの綸旨により内宮の別宮とされたため、これを不満とした伊雑宮の神人は寛文2年(1662)江戸に入り、寺社奉行・井上河内守に訴えた。これも聞かれなかったため、ついに四代将軍徳川家綱の日光社参の途上、直訴に及んだ。しかし、これも受け入れられず、翌寛文3年(1663)伊雑宮の神人47人が伊勢・志摩両国を追放され、以来、伊雑宮は内宮の別宮と定められた。
伊雑宮は地元の人々との関わりが深かったことから、高欄をめぐらしたり、金銅飾金物を用いるなど独自の部分があったが、明治42年(1909)の式年遷宮から他の別宮と同じ形式となった。
毎年6月の月次祭当日に行われる御田植式は「磯部の御神田〔おみた〕」と称し、国の重要無形民俗文化財。平安時代の末期には、すでに現在の形になっていたという古式豊かな神事である。香取神宮の御田植祭、住吉大社の御田植神事とともに日本三大御田植祭に数えられる。
伊雑宮の南西約800mには伊雑宮の所管社の佐美長〔さみなが〕神社が鎮座する。佐美長神社は大歳神を祀り、江戸時代までは大歳社〔おおとしのやしろ〕、穂落社〔ほおちのやしろ〕などと呼ばれていた。式内社の粟嶋坐神乎多乃御子神社に比定される。佐美長神社の境内には同じく伊雑宮である所管社・佐美長御前神社四社〔さみながみまえじんじゃししょ〕が鎮座している。佐美長御前神を祀るが、伊佐波登美命とその子孫を祀るともいう。
写真帖
近鉄上之郷駅から徒歩数分で伊雑宮の鳥居に着く。
手水舎。撮影は平成28年の参拝時、62回遷宮から1年余りで、まだまだ新しい。
忌火屋殿。
祓所。
宿衛舎横にある巾着楠。根元の部分が膨らみ、巾着のように見えることからその名がある。樹齢は700年を超えるとのこと。元々この場所に石があり、楠がそれを包み込むような形で生長したため、こういう形になったそうだ。金運上昇の御利益があるとも。
勾玉池。名前の通り、勾玉の形をしている。
皇大神宮別宮 伊雑宮。
伊雑宮境内の南にある御料田(御神田)。ここで日本三大御田植祭の一つに数えられる「磯部の御神田」が行われる。
倭姫命旧跡地
伊雑宮の北東200mほどのところに倭姫命旧跡地がある。このあたりに千田寺があった。
千田の御池。『倭姫命世紀』によれば、垂仁天皇27年(BC3)9月、鳥の鳴く声が高く、昼夜止むことがなかったので調べさせたところ、伊雑の潟上の葦原の中に稲が一基あり、末は千穂に実っていた。そして、一羽の白い真鶴がその穂をくわえ、回りながら鳴いており、それを発見すると鳥の鳴き声が止んだ。それを聞いた倭姫命は、その地に引水池と苗代を作らせた。これが千田の御池の起源であるという。
天井石と鏡楠。大正末期、この大楠を切り倒された時、根元を掘り返すと天井石が現れ、その下から鏡や勾玉が見つかったため、倭姫命の遺跡ではないかとされたという。
佐美長神社
伊雑宮の南西約800m、歩いて10分余りの所に伊雑宮の所管社・佐美長神社が鎮座する。
佐美長神社。伝承によれば、白い真鶴が稲穂をくわえていた葦原は当地であり、その真鶴を大歳神と崇め、祀ったのが佐美長神社のはじまりであるという。
伊雑宮の所管社・佐美長御前神社。4つの社が並んでおり、「佐美長御前神社四社」とも記される。伊雑宮の所管社は5社あり、第1位は佐美長神社、第2位から第5位が佐美長御前神社である。
メモ
近鉄志摩線の上之郷駅から歩いてすぐのところに鎮座する。周囲はかつての門前町の風情を残している。宮域のすぐ南側に磯部の御神田〔おみた〕が行われる御料田がある。さらに北に5分ほど歩くと、倭姫命ゆかりの千田〔ちだ〕の御池や倭姫命御旧跡地などがあり、かつての繁栄を偲ぶことができる。
伊雑宮の概要
名称 | 伊雑宮 |
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通称 | 伊雑宮〔いぞうぐう〕 磯部の大神宮さん |
御祭神 | 天照大御神御魂〔あまてらすおおみかみのみたま〕 |
鎮座地 | 三重県志摩市磯部町上之郷374番地 |
創建年代 | 伝・垂仁天皇の御代(B.C.29~A.D.70) |
社格等 | 皇大神宮別宮 式内社(論) 志摩国一宮 |
延喜式 | 志摩國答志郡 粟嶋坐射佐波神社二座 並大 同嶋坐乎多乃御子神社(論:伊雑宮所管社 佐美長神社) |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月3日/元始祭 2月11日/建国記念祭 2月20日/祈年祭 5月14日/風日祈祭 6月24~25日/月次祭 ※6月24日/御田植式 旧6月25日/御祭 8月4日/風日祈祭 10月24~25日/神嘗祭 ※10月25日/調献式 11月26日/新嘗祭 12月24~25日/月次祭 |
文化財 | 〈重要無形民俗文化財〉磯部の御神田 |
交通アクセス
□近鉄鳥羽線「上之郷駅」より徒歩3分
更新履歴
2007.02.11.公開。
2017.01.12.更新、WPへ移行、御朱印・画像を追加。
2024.08.05.更新。